「マラッカ物語」 鶴見良行

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GMBO2008 @GMBO2008

したがって、民衆の労働を財に転化する経済行動の組織化は、専ら首長の側に委ねられていた。この集団経済行動が交易航海、戦争、海賊行為である。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-25 22:50:09
GMBO2008 @GMBO2008

したがってマラヤ社会における戦争は、集団の維持防衛や名誉よりも、そのときどきで獲物を得なければならない経済行為としての性格を強く持っていた。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-25 22:50:10
GMBO2008 @GMBO2008

「責任を負わない程度に、内陸部に進め」それが、不介入時代の英国当局の一貫した態度である。介入は必ず責任をともなうから、この姿勢はいずれ決を問われることになる。当局の慎重さに較べて、商人の進出は大胆だった。当局に決断を迫ったのはかれらである。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-25 23:10:39
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植民地と本国の距離は遠かった。1855年に進水したオピアム・クリッパー「ケート・カーニー号」は、俊足をもって知られたが、ロンドンから当地まで88日を要した。本国と植民地の間には、年に2度の往復通信がやっとだったのである。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-25 23:10:40
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(中略)だから本国官僚と植民地現場の当事者の間には感覚の食い違いがあった。 ロンドンの眼には、シンガポールは、大局を弁えない冒険主義者の集まりと映ったし、他方、出先からすると本国は、現場を知らない冷酷な政治家の巣である。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-25 23:10:40
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「ユニオン・ジャックを世界の海になびかせているのはわれわれだ」そんな自負に燃える植民地官僚や商人の間には、本国に対する不信の念が育っていった。とくに財政不如意から、ともすれば過酷な要求を出先に突きつけた東インド会社に対する憎しみが強かった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-25 23:10:40
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オランダへの敵意に燃える積極論者ラッフルズは、ベンガルの英人商人の間で評判がよかった。 (中略) 商人が出先官僚を突きあげ、現場官僚は本国の訓令を無視して独断専行してゆく。植民地が本国をひきずりながら、大英帝国は建設されていった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-25 23:10:40
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イギリス当局は、叛乱の拡がる兆候に苦慮した。一時は、パハン放棄を考慮したほどである。 92年10月、パハン、ジョホールの両サルタンとC・スミス総督が会談し、叛乱者が投降すれば恩赦を与える方針を打ち出す。バハマンとト・ガジャの首謀者だけが、この特典からはずされた。 「マラッカ物語」 鶴見

2021-04-30 22:29:27
GMBO2008 @GMBO2008

2人だけが平民出身だった。当局は、パハン反植民地戦争の階級的性格を正確に理解し、伝統的貴族と成り上がり者との間に、離間工作を試みたのである。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 22:29:27
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スズとアヘンは、セットになってマラヤ内陸部の開発に利用された。二つの商品が組み合わされなかったら、半島内陸部への経済的進出は、僅か半世紀の間に達成されなかったに違いない。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 22:32:21
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16世紀にすでにかなりの数の華人が東南アジアに流出しているが、その多くは、農民として働いたようだ。東南アジアの漁業技術も中国から伝わったものが多い。スズも胡椒も、西洋が進出してくるまでは、西方よりは東方の中国市場へ流出した量が多い。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 22:56:00
GMBO2008 @GMBO2008

こうして華人労働者は、生産力であると同時に新納税者になるという二重の役割を担うことになった。これはスズ鉱山の華人苦力が労働者であると同時に、アヘン消費者だという関係と相似である。二重の関係にさらに加えれば、かれらは技術者でもあった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 22:56:01
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マラヤのスズ鉱山を実際に動かしたのは、華人の技術だった。 (中略) 同時に、人種別、産業別の集団分化が、内陸部の経済開発に伴って進行する。現代マレーシアの他民族社会という性格は、こうして形成された。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 22:56:01
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イギリス植民地官僚や冒険商人やサルタンたちの激しく血なまぐさい利権闘争の裏面で、19世紀のマラヤ半島の植民地経済開発を実質的に支えたのは、華人とインド人移民である。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 22:56:01
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「華人は、唯一勤勉な種族で、マラヤ半島の産業、貿易のバックボーンだ」 これは、半島属領化の直接の当事者だったクラーク総督の言葉である。F・スウェッテナム総督になると、もっと老獪で、マラヤ人ヘのタテマエと華人へのホンネを次のように結びつけている。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:08:08
GMBO2008 @GMBO2008

「われわれの第一の目的は、マラヤ人の福祉をはかり、彼らの生活を快適で幸福なものにすることだったが、華人に対しては、労働者、税収の負担者として期待せざるを得なかった。」 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:08:08
GMBO2008 @GMBO2008

だが、スズ鉱山の開発は、マラヤ半島を根本的に変えてしまう。マラッカ海峡の航路としての重要性はなおも残るが、今度はそれに世界市場に従属する新しい産業社会としての性格が加わる。マラヤ半島は、植民地本国に対する原料供給者となった。最初はスズ、今世紀になってゴムである。 「マラッカ物語」

2021-04-30 23:15:21
GMBO2008 @GMBO2008

華人鉱山が英国企業に優った最大の利点は、苦力の動員にあった。のちの時代になると、成功して帰国した華人が親類縁者に旅費をわたし、すすんで異国に送り出す場合も見られた。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:26:50
GMBO2008 @GMBO2008

しかし、1870年代までは、福建、広東など南部各省の若者が、故郷の農村を食いつめ、結社や郷党から旅費を借り、新客(シンヤー)として渡来する場合が多かった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:26:50
GMBO2008 @GMBO2008

アモイ、広東、シンガポール、ペナンなどには、こうした年季労働者を送り出し出迎える船宿、苦力溜りが分業組織されていた。いわば人買いのルートである。鉱山主は、シンガポールの苦力溜りと契約して新客をひきとった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:26:50
GMBO2008 @GMBO2008

ウォン教授は、華人鉱山主について次のように書いている。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:36:38
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「いつ何時、敵意に満ちた戦場に化しかねないマラヤのジャングルにあって、スズ鉱山に投資する華人企業家が備えていなければならない条件は、開拓者の荒々しさと軍人の戦略性と外交官の抜け目なさと、すすんで労働者を死に追いやる資本家の冷酷さだった」 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:36:38
GMBO2008 @GMBO2008

同じジャングルの地にあって、資本家の冷酷さや外交官の抜け目なさなら、イギリス人といえども華人にひけをとらなかったろう。にもかかわらず、19世紀を通じ、イギリス人が敗北を喫したのは、あらゆる面でかれらの採掘方法が高くついたからである。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:36:39
GMBO2008 @GMBO2008

植民地時代にかぎっていえば、マラヤの内陸部開発に最大の役割を果たしたスズ鉱山は、華人資本と苦力によるほぼ1世紀を経て、最終支配者イギリスの手に移ったのである。スズ鉱はまた、マラッカ社会が初めてもった産業らしい産業でもあった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:49:08
GMBO2008 @GMBO2008

中継貿易の拠点として成立した港市交易社会は、植民地制度に本格的に組み込まれた産業社会へと変貌する。統一成熟したマラヤ社会が、イギリスという強者の支配下に組み込まれたのではなく、今日のマレーシアの原型が、植民地制度のもとで形成されたのである。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-30 23:49:08