「マラッカ物語」 鶴見良行

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GMBO2008 @GMBO2008

「バナナと日本人」は読んだ時のインパクトも大きかったけれど、例えば「ニューギニア高地人」、「自動車絶望工場」、「不当逮捕」と比べてみると 、40年前に経済・社会のグローバル化の負の側面を取り上げている点に射程の長さがあった それはジャーナリストと研究者の違いなんだろうか

2021-04-05 23:57:40
GMBO2008 @GMBO2008

「マラッカ物語」の奥付を見て著書欄に「バナナと日本人」がなくて気になったが、前者の方が1年前の出版なのだった ゴアとマカオは行ったことがあるから、マラッカにも行ってみたいもの そしてCabo Verde

2021-04-05 23:57:41
GMBO2008 @GMBO2008

歴史は不平等に創られた不平等の記録である。不平等を是認するのではない。不平等と偏りへの反撥が力となって認識を発展させ、さらにそれを乗り越える形で新しい地平が見えてくる。しかしこの新しい地平もまたある種の偏りから自由であることはない。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-10 23:14:57
GMBO2008 @GMBO2008

インド洋の季節風の仕組みについて書かれたおそらく最古の文書は、ギリシャ系の航海者が1世紀半ばに残した『エリュトラ海航海記』だっただろう。エリュトラ海は紅海である。そこにはモンスーンを利用してアデンからインドのマルバラ海岸(南西岸)に達する方法が書かれている。 「マラッカ物語」 鶴見

2021-04-10 23:38:53
GMBO2008 @GMBO2008

この航海を達成したのは、ギリシャ商人のビッパロスという男だった。航海史家によると、これ以後、インド洋の南西風は、長い間「ヒッパロス」と呼ばれるようになったとのことだ。 「マラッカ物語」鶴見良行

2021-04-10 23:38:53
GMBO2008 @GMBO2008

(中略) インドからマラッカ海峡に達して往復するのに2年かかった。この状態は、西洋が本格的に進出してくる16世紀になっても変わっていない。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-10 23:38:53
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(中略) この条件が海峡一帯に、古くから特殊な社会を育てることになった。一種の宿場的な世界である。自らは産業らしいものを持たず、他人の商売の便益を計る港町だったので、「港市交易社会」と呼ぶ学者もいる。土地の住民の多くは、「オラン・セラテ」と称ばれる漁民だった。 「マラッカ物語」

2021-04-10 23:38:54
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マラヤ語でオランは人間、セラテは海峡である。(中略)漁民とはいえ、かれらの裏の商売は、海賊である。どんな大船も、海峡内ではゆっくりとしか動けなかったので、無数の小舟で包囲して攻撃を仕掛けるのに、ここは絶好のばしょだった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-10 23:38:54
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おそらく宿場港の発達は、それを支えるだけの食糧生産の発展をもっていなければならなかった。それは水田耕作による米である。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-10 23:41:54
GMBO2008 @GMBO2008

今日のクラ運河計画の古代版ともいえる半島横断水路は、こうして、米と海賊のからみあいで発生した。そしてこの二つが象徴する生産体系、水田耕作社会と海洋社会の結合と衝突こそ、実は、マラッカ海峡はいうにおよばず、広く東南アジアの歴史を前進させた動因である。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-10 23:49:32
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このダイナミクスは、19世紀に西洋植民地主義が内陸部をすっかり変えてしまったときに意味を失ったかに見えるが、実はそうではなく、独立後の今日の諸社会にも影を落としている。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-10 23:49:32
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支配文化伝来の系譜からいうと、仏教が先行し、その後を追って、仏教系のシヴァ信仰、6世紀になってヒンドゥー教のヴィシュヌ信仰とブラーマンが渡来した。 この順序は重要である。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-10 23:54:19
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インド文化は、ヒンドゥー、仏教ともに、定着農耕文化のものである。生まれながらにして農耕社会に適合する素地をもっていた。インド文化が稲作を促進させ、それが余剰食糧となってインド人を招きよせる余裕を生んだ。インドは道をならしながら東へ南へと進んだのである。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-10 23:59:20
GMBO2008 @GMBO2008

東南アジアにおけるインド文化の嫡子は、あくまで内陸部の農村である。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-10 23:59:20
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東南アジアの水田社会の出発は山村だったという私の仮説は、ブナム(扶南)にも当てはまる。今日のプノンペンの地名にも痕跡を残しているブナムは、クメール古語で山を意味する。そしてサンスクリット語による王朝名のサイララジャは、「山の王」の意。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-11 00:21:40
GMBO2008 @GMBO2008

クメール語ではクルン・ブナムであり、このクルンは漢字の崑崙の語源となった。サイララジャはのちにシャイレンドラと転化して、ジャワ、スマトラへと血統とともに伝えられる。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-11 00:21:40
GMBO2008 @GMBO2008

輸出商品としても、食糧としても、なんの生産も行わない純粋交易社会であるシュリビジャヤやマラッカは、水田山村に定着したインド文化を借りてみずからを正当化してゆく。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-11 00:21:41
GMBO2008 @GMBO2008

ここでは、水田山村を生まれ故郷とする支配イデオロギーとそれを受け容れた交易社会との間に、ずれが発生するために、さまざまな偽装工作が行われる。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-11 00:21:41
GMBO2008 @GMBO2008

『マラヤ編年記』には、マラッカ王朝の祖スリ・トリ・ブアナが、リオ島からシンガポールへ移動する途中の浜辺で野立をする光景が描かれている。魚、貝、海草、なまこを浜辺で拾い、海草でゼリーを作り、なまこは生で食べた。海草は、テングサ系のものだったようだ。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-17 23:08:31
GMBO2008 @GMBO2008

リオ島から従ってきた民衆は海洋民だったが、この情景には、漁業らしきものはない。『マラヤ編年記』には、漁に関する記述はこれしかない。マシーソンの指摘するように、編年記は確かに宮廷の書物である。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-17 23:08:31
GMBO2008 @GMBO2008

パレンバンのこれまでの支配者デマン・レバール・ダウンにも美しい娘があり、ブアナは、40人目には彼女に求婚する。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-17 23:25:59
GMBO2008 @GMBO2008

すると父親ダウンが王に答えていうには、「王の僕としての私は、一つの約束をしていただきたいと思います。のちのちのお世継ぎたちが吾が一族を大切に扱う、という保証でございます」 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-17 23:25:59
GMBO2008 @GMBO2008

王はすかさずきりかえした。「よろしい。あなたの、のちのちの一族も王家に忠誠をつくすというのなら…」 かくして契約が交わされ、娘は王と一夜を共にするが、彼女の身に異常はあらわれなかった。そこで盛大な婚儀が行われることになる。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-17 23:25:59
GMBO2008 @GMBO2008

(中略)この婚姻にまつわる契約のエピソードは、足首信仰に示されるような農耕神話が効き目をもたなかったことを示している。婚儀を済ませたブアナは、ある日「海を見廻ってくる」といって臣下をひきつれビンタン島に渡り、さらにシンガポール島へ移る。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-17 23:26:00
GMBO2008 @GMBO2008

一定の領土とその人民に対する徴税権、用益権を基礎とする"封"の概念が、マラヤ社会では、かなりのちになっても、弱かったからだ。首長に対する民衆の義務は、一定比率による収穫の上納よりも、年に2、3ヵ月労働奉仕することを根幹としていた。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-04-25 22:50:09