「マラッカ物語」 鶴見良行

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GMBO2008 @GMBO2008

1811年、ペナンの植民地国庫総収入は約19万スペインドルだが、そのうち各種専売収入が8万5000ドル(44%)、アヘン売上げは3万5000ドル(18%)になっている。1820年には、アヘン売上げの比率は22%に達した。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 14:31:27
GMBO2008 @GMBO2008

1875-1905年の30年間、全海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)の国庫収入総額のうち、アヘンの専売収入は、一貫して43-56%を占めている。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 14:31:28
GMBO2008 @GMBO2008

いずれにせよ、マラヤの華人スズ鉱山は、アヘンと結びつかなかったらそれほど急速に発展しなかったし、逆にスズ鉱山がなかったら、アヘンの売上げも伸びなかったのである。アヘン専売制度は、華人社会をイギリス植民地制度に結びつける強力な紐帯だった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 14:42:16
GMBO2008 @GMBO2008

それがなかったら、内陸部開発の速度はずっと鈍かったに違いない。国庫収入の半分近くを占めるアヘン収入がなければ、道路、港湾、鉄道などへの公共投資もはるかに減っていただろう。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 14:42:17
GMBO2008 @GMBO2008

1890年代に労働力が不足するようになると、アヘン専売制度は、ようやく内部矛盾を露わにする、逃亡が容易になったから、鉱山主もうかつにアヘンを前貸しできなくなった。どのみちアヘン収益が限られるとすれば、健康な肉体による生産向上の方が得だという計算も働く。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 14:42:17
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なんとも美しく奸智にたけた精製法である。これはまさしく鱶のひれやなまこの調理法を発明した中国料理そのものではないか。私自身、料理が好きだから実感できる。精製アヘンをクックト・オピアム(料理したアヘン)というのは当然の理だった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 14:50:38
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いかなる労力も惜しまずに感覚的な美を追求する耽美的中国文化の土台がなければ、アヘン調理法は完成しなかっただろう。しかもそれはいささかの無駄も許さない商品であり、だからこそ植民地経済の基礎となり得た。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 14:50:39
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マジャパイトもマタラムもジャワの水田耕作社会である。ここに伝えられた神話は、インド系のものを骨格として、折衷がこらされているが、中心は、神王秩序観である。神話は解釈できるだけではない。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 15:42:14
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ジャワは、大地の豊かさと人間の従順さのゆえに、東インド諸島で植民地主義からもっとも苛酷な扱いを受けた土地である。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 15:42:15
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にもかかわらず、そこが伝統厚い農民社会であったがために、神話は住民の心に生き残り、危機の時代には、救世主再来信仰となったり、新しい思想と合体したりして、力を発揮した。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 15:42:15
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(中略) 伝統の基盤が深ければ深いほど、それはいつか必ず顔を出す。しかしよび醒まされた伝統が、人間解放の方向に役立ってくれるとはかぎらない。より多くの場合、伝統主義者は反動主義者だ。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 15:47:01
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そもそも、1834年のマラヤ半島の全人口は、42万人にすぎない。海峡植民地三港の人口の半分が華人だったとしても、その全体に対する比率は、12%である。それが100年後、1931年の人口調査では、439万人、そのうち、華人が39%、インド人14%にふくれあがった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 15:54:42
GMBO2008 @GMBO2008

移民の占める比率がいかに高いかが分かる。しかも華人、インド人は、圧倒的に西岸4州に集まっていた。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 15:54:43
GMBO2008 @GMBO2008

日本資本の組織的なマラヤ進出が始まるのは、1910年代、世界的なゴム景気に促されたものだ。1911年(明治44年)に資本金20万円で南洋護謨株式会社が設立され、この頃からゴム園への投資が盛んになっている。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 16:03:45
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この当時のシンガポール在留邦人は、「娘子軍」300人を含めて、1700人余、1908年には二つの日本語新聞『南洋新報』『新嘉坡日報』が発刊され、1910年には日本人会が結成、その翌年には生徒数26人の日本人小学校も開校している。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 16:03:45
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1911年には日本練習艦隊(阿蘇、宗谷)が初めてシンガポールを訪れた。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 16:03:46
GMBO2008 @GMBO2008

19世紀前半、半島を埋めていたのはこうした人びとである。鳥瞰図ふうにいえば、色合いを異にする人種、階級の集団が、ジャングルの緑のあいまに散らばっていた。相違を超えて、人種集団を結束させたのは、帝国主義であり、日本軍だった。 「マラッカ物語」 鶴見良行

2021-05-01 16:08:27