形而上学的思考→生権力論(+BI問題)→生政治論とサンデル講義(2回目)→統治性への反抗と「啓蒙」
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Abraxas_Aeon
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意識とは、外在性との関係から現実の用語で定義されるというよりは、むしろ優越性との関係から価値の用語で定義される。この差異は、意識と無意識についての一般的な考えに不可欠なものである。(ドゥルーズ)
2010-04-26 20:27:16![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ニーチェにおいて、意識とは常に優れた者に対する劣った者の意識であり、そこで劣った者は優れたものに服従し、取り込まれる。意識とは決して〈自己意識〉ではなく、自己(それは意識的ではない)に対する自我の意識である。(ドゥルーズ)
2010-04-26 20:29:27![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@suppatenkoh 面白いのはフーコーの『監獄の誕生』の中で説明されている支配関係・権力関係の網の目の中で政治的攻囲されている〈身体〉が形成する〈魂[=監獄装置]〉が、この反動的意識としての〈自我〉と同一視できるというところです。
2010-04-26 20:40:20![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@Abraxas_Aeon クラインの壷でモデル化される近代人の意識ですよね。それが権力関係によって作られる。根本にはそのニーチェ論的なものをドゥルーズは考える、と。…個人的には大陸合理論的に、形而上学的に、そのドゥルーズの言葉を読みたいところだったりしますが。
2010-04-26 20:45:43![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@suppatenkoh >個人的には大陸合理論的に、形而上学的に、そのドゥルーズの言葉を読みたいところだったり というと?
2010-04-26 20:48:49![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
人間は精神をもつとする。人間の身体の変化が人間の精神の変化を規定していることを認めることにする。人間の身体に何か他の物との差異があるか考える。物質の特徴的な配置構造以外は、何の変哲もなく見える。とすると、物質は人間に特徴的な配置構造で配置されれば精神を持つことになる。
2010-04-26 21:00:28![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ここから以下の可能性が考えられる。すなわち、個々の物質には何も精神的な面はないが物質が特定の配置に並べば精神が創発されるという可能性と、個々の物質にはそもそも微小精神が付帯しており特定の配置で物質が並ぶのに対応して微小精神が配置されたに過ぎない、という可能性。
2010-04-26 21:04:30![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
後者の可能性を仮定として選択するほうが、原理を増やす代わりに条件を減らすことが出来るので、近代自然科学の選択してきた基本方針に沿う(気がする。要吟味)ので、後者を選ぶことにする。
2010-04-26 21:08:04![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
前者はフーコーの権力論に近いものだと思います。RT @suppatenkoh 個々の物質には何も精神的な面はないが物質が特定の配置に並べば精神が創発されるという可能性と、個々の物質にはそもそも微小精神が付帯しており特定の配置で物質が並ぶのに対応して微小精神が配置されたに過ぎない、
2010-04-26 21:14:41![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
さて、そこから「意識とは常に"優れた者"に対する"劣った者"の意識だ」というニーチェ=ドゥルーズの議論を受け入れることにする。これは人間の精神における一般論であり、世界における論理を研究した論理哲学論考もこれは支持しているといえる。
2010-04-26 21:14:54![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「形を与えられて在るもの(=存在者)を在らしめる可能性、生成としての動き(=存在)はいつも忘れられてしまうのではなかったか」ハイデッガー。一応、私の形而上学的思考の簡単な把握って「混沌とした自然や素材は形(フォルマ)を与えられるまでは存在しないも同然であるとする考え」となってる。
2010-04-26 21:15:04![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
それをデカルトの「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という言葉をズラすことで説明する。上記の命題には次のような加工が出来る。「(上記の命題)とわたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という加工だ。これはどういう加工か。
2010-04-26 21:18:13![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
最初の命題を発した者は命題内のわたしとは別に存在する。つまり、言表の主体と言表行為の主体は違う。この言表行為の主体を言表内に表現するのが、この加工でなされていることである。そしてこの加工の過程で、再度、言表行為の主体は言表外に生産される。
2010-04-26 21:22:00![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
こうして、デカルトの命題は無限に後退しはじめる。「「「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」とわたしは考える、ゆえにわたしは存在する」と考える、ゆえに…」
2010-04-26 21:23:23![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ここから導かれることは「純粋な自己意識は存在しない」ということだ。さて、これは人間の精神における話なのだった。ここからすぐに物質一般に付随する精神一般についてもこれが成り立つと主張する気はない。
2010-04-26 21:27:09![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
しかし、こうは言える。人間において純粋な自己意識は存在しないことは、事物(物質・精神両方を同時に指すときにこう言うとする)そのものの本性から説明されねばならないということだ。事物は、少なくとも人間的形態をとる場合は、純粋な自己意識を発生させることがない。
2010-04-26 21:30:04![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
そこで、もし、「純粋な自己意識は存在しない」というのが事物において必ず成り立つことであるならば?と問うことは、許される。たとえば、即興で考えたSF的想像だが、世界はプランク時間隔てて過去側と未来側が実在しており、過去側が常に対象で、未来側が常に主体であるとか。
2010-04-26 21:33:46![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@suppatenkoh ありがとうございました。ふーむ。私などは、ドゥルーズの説明からして、「自己」については「無意識的」ととっていたんですが。「自己意識」が「存在しない」というのは〈無〉ということだろうか。
2010-04-26 21:41:26![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@Abraxas_Aeon 言表行為の自己はつねに無意識の位相に潜在し続けると思います。そこから言表の自己と次の言表行為の自己が対生成されるのだと考えています。
2010-04-26 21:42:36![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@suppatenkoh なるほどね。確かに形而上学的思考だ。よくわかりました。それをハイデッガーやレヴィナス的にいうこともできるかと思いました。
2010-04-26 21:46:14![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@Abraxas_Aeon それはよかったです。自分の思考の深い部分について話して分かってもらえるととてもうれしいものですね。ツイッターは時間をかけて、かつ即興的に、かつ視覚内に一連のツイートを並べて分かりやすく、説明できるのがすばらしいですね。
2010-04-26 21:48:05