2021.04.25 青天を衝け(11)「横濱焼き討ち計画」放送後の桐野作人先生による解説ツイート

7
桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河「青天を衝け」第11回「横濱焼き討ち計画」。渋沢栄一、同喜作、尾高惇忠らがいよいよ攘夷挙兵に起ち上がろうとする。その時期の幕府や社会の動きはどうだったか? 幕府では大きな変化が生じた。久世-安藤政権が倒れて、幕府の新たな体制づくりが急務となった。#青天を衝け

2021-04-25 21:16:58
桐野作人 @kirinosakujin

幕府の改革は内部からではなく外部の圧力で強行された。それは島津久光の登場で始まった。ドラマでは、将軍後見職に就いた一橋慶喜と政事総裁職となった松平春嶽と会合の場で、久光が攘夷を強調して、慶喜から偽善だと嫌みを言われて久光が不機嫌になる様子が描かれたが少し違うと思う。#青天を衝け

2021-04-25 21:16:59
桐野作人 @kirinosakujin

久光は率兵上京したときから、攘夷派とは一線を画しており、それは藩内攘夷派を粛清した寺田屋事件に顕れている。久光も一般的な攘夷に反対ではなかったが、政略上、攘夷は保留して強く主張しておらず、朝廷と幕府の改革を優先していた。だから、慶喜に攘夷を迫るというのは考えにくい。#青天を衝け

2021-04-25 21:16:59
桐野作人 @kirinosakujin

それはともあれ、勅使大原重徳を伴って江戸へ下った久光は銃砲で武装した薩摩藩兵の威力もあって、まず春嶽の政事総裁職就任を幕府に認めさせた。しかし、幕府は慶喜の復権には抵抗した。そこで、薩摩藩は一計を案じた。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:00
桐野作人 @kirinosakujin

「此度、叡慮を以て仰せ下され候に付き、後見相勤められそうろう様に」と、どこかよそよそしく、幕府の意向というより、「叡慮」すなわち天皇の意向なので仕方なく後見職に就けたといわんばかりだった。もともと、将軍後見職も政事総裁職も幕府の常置の役職ではなく、臨時職である。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:00
桐野作人 @kirinosakujin

そのため、ほとんど権限がなくお飾りにすぎないことが明らかになってくる。ともあれ、自身の実力で慶喜の将軍後見職を実現した大久保一蔵はひそかに快哉を叫んだ。日記には「数十年来苦心焦慮したことは夢のような心地である」と書いた。前藩主島津斉彬の宿願が叶ったという思いだった。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:01
桐野作人 @kirinosakujin

大河ドラマ「青天を衝け」続き。一方、渋沢栄一たちの攘夷挙兵計画である。この頃、北武蔵では、栄一たちのほか、血洗村がある大里郡の西隣、榛沢郡阿賀野村の儒者、桃井可堂とその同志たちも挙兵を計画していた。渋沢たちは「慷慨組」、桃井らは「天朝組」と称した。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:11
桐野作人 @kirinosakujin

渋沢たちは高崎城を乗っ取ったうえで横浜居留地の焼き討ちを計画したが、桃井らは南朝の忠臣、新田義貞の後裔、岩松俊純を擁して赤城山挙兵をめざし、新田義貞の鎌倉攻略に倣い、横浜襲撃も計画していたという。しかし、肝心の岩松が恐れを成して江戸町奉行所に訴え出たため失敗に終わる。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:11
桐野作人 @kirinosakujin

一方、渋沢たちのほうも結果として計画を中止してしまうが、それは次回のお楽しみ。ただ、不思議なのは、なぜ高崎城を奪ったあと、鎌倉街道を進んで横浜の焼き討ちなのか? その戦略の意味がよくわかならない。栄一の自伝『青淵回顧録』によれば、挙兵参加者は69名の同志だったという。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:12
桐野作人 @kirinosakujin

わずか69名で高崎城を維持できるはずがない。あくまで城乗っ取りという驚天動地のことをやって天下の耳目を集めたいという目的か? それなら横浜の居留地焼き討ちも同様で、しかも外交問題となって英仏などと戦争になってもおかしくない。こちらがはるかに驚天動地である。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:12
桐野作人 @kirinosakujin

むしろ、高崎城乗っ取りなどやめて北武蔵から一気に鎌倉街道を南下し、横浜を襲撃したほうがよいのでは? 69名いたらかなりのことができるはず。渋沢たちと相前後して、高杉晋作らが建設中の英国公使館を焼き討ちしたが、わずか10数名である。渋沢たちのほうがよほど有利だと思うが。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:13
桐野作人 @kirinosakujin

文久3年(1863)は関東、関西で同時多発的な攘夷挙兵が行われている。しかし、八月十八日政変によって、長州勢力が都落ちしてから、天誅組の潰滅など攘夷派は大打撃を蒙った。一方、関東では家元の水戸藩以外でも、慷慨組と天朝組、さらに下総九十九里でも真忠組が挙兵した。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:14
桐野作人 @kirinosakujin

真忠組は楠音次郎や三浦帯刀を首領として、窮民救済の世直しをスローガンとした。攘夷色はそれほど強くない。この挙兵は貧民に支持されて1年間ほど持ちこたえた。彼らも水戸藩攘夷派とつながっていたかもしれない。新田や楠といった鎌倉幕府打倒の忠臣たちに倣うのもこの時期の傾向。#青天を衝け

2021-04-25 21:17:14