2021.05.02 青天を衝け(12)「栄一の旅立ち」放送後の町田明広先生による解説ツイート

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町田 明広 @machi82175302

本日は「青天を衝け」12回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。#青天を衝け

2021-05-02 18:46:38
町田 明広 @machi82175302

幕臣がここまで登場する徳川大河、期待したい。当初の想像を超え、明治編が長いか? #青天を衝け

2021-05-02 12:59:47
町田 明広 @machi82175302

「青天を衝け」12回目を拝見!決起を押し止まるか否か、長七郎と渋沢らの激論にその場に居るような高揚感を覚えたが、それぞれの家族の絆が巧みに描かれ、涙を誘われた😢 平岡の豪放磊落さ、川路の老獪な雰囲気、長七郎の鬼気迫る熱情、どれもこれも素晴らしく、見事な血洗島編の最終回!#青天を衝け

2021-05-02 20:45:40
町田 明広 @machi82175302

渋沢うたちゃんの、あまりの可愛さに打たれる☺️  最期の一直線に空に伸びる雲、青天を衝け!清々しい。#青天を衝け

2021-05-02 20:47:10
町田 明広 @machi82175302

復習も兼ねて、文久3年(1863)4月頃からの渋沢栄一の動向にについて、少々振返ってみよう。渋沢は父・市郎右衛門の許しを得て、再び江戸に出て海保塾および千葉塾に正式に入門した。7月に坂下門外の変で闘死した河野顕三の「春雲楼遺稿」を刊行している。河野の影響は大きい。#青天を衝け

2021-05-02 20:47:48
町田 明広 @machi82175302

4月以降の4ヶ月間、時々帰郷して攘夷について議論し、また渋沢・尾高惇忠は武器類を買い集めて実家に隠匿した。栄一はこの頃を述懐し、「朝廷からは終始かわらずに攘夷鎖港の勅諚があるにもかかわらず、幕府においてはいつまでも因循して居て」(『雨夜譚』)と幕府を批判している。#青天を衝け

2021-05-02 20:48:33
町田 明広 @machi82175302

文久3年8月頃、渋沢栄一は尾高惇忠、渋沢喜作と3人で「幕政の腐敗を洗濯した上で、国力を挽回する」ため、攘夷実行の計画を密議した。高崎城を乗っ取り、武器弾薬を奪略して横浜外国人居留地を襲撃。焼き打ちして外国人を残らず殺害する無謀な計画を立案した。#青天を衝け

2021-05-02 20:49:09
町田 明広 @machi82175302

この横浜焼き討ち計画は、文久3年11月の冬至の日、総勢69名(渋沢、尾高惇忠・長七郎、渋沢喜作、千葉塾で懇意の真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎、海保塾の中村平三郎、その他親戚郎党など)で決行することを決定した。正真正銘な志士・渋沢栄一の誕生である。#青天を衝け

2021-05-02 20:49:56
町田 明広 @machi82175302

9月13日、渋沢は既に身を以て国に殉ずる決意をしたため、父市郎右衛門に家督を辞すことを希望し徹夜で議論した。明け方になって遂に許可を得た。翌14日、挙兵準備のため江戸に出て約1ヶ月滞在し、10月末、帰郷し土蔵に秘匿した武器類を整理し、役割分担を策定するなど挙兵準備を進めた。#青天を衝け

2021-05-02 20:50:41
町田 明広 @machi82175302

文久3年の江戸滞在の時期、渋沢栄一は一橋家の家臣たちと急速に接近を果たした。特記すべきは、川村恵十郎と知り合い、その紹介から用人・平岡円四郎の知遇を獲得したことである。家臣団が手薄な一橋家から仕官の誘いがあったが、攘夷実行を優先して辞退した。まあ、当然のことだが。#青天を衝け

2021-05-02 20:52:17
町田 明広 @machi82175302

川村恵十郎(正平)について、天保7年(1836)7月7日、江戸に生まれた。安政2年(1855)2月に小仏関所番見習となる。文久3(1863)5月、朝廷と幕府方の折衝に関連した建白書を一橋慶喜に提出し、農民募兵に尽力した。#青天を衝け

2021-05-02 20:53:01
町田 明広 @machi82175302

川村恵十郎は、文久3年12月に一橋家に普請役見習として仕官した。その下役に渋沢栄一と喜作がいた。京都から江戸・駿河へと、常に慶喜に随った。しかし、平岡円四郎、黒川嘉兵衛や原市之進の陰に隠れ、一橋家の実権を握るまでには至らなかったようだ。#青天を衝け

2021-05-02 20:53:52
町田 明広 @machi82175302

川村恵十郎は、維新後、1873年に大蔵省出仕、1874年には内務省出仕し、大久保利通に随行して清国に渡航している。1875年に正院出仕、1877年に太政官、1883年に兼宮内省出仕。1885年に内閣属、1890年に内閣恩給局勤務、1893年12月に退官している。#青天を衝け

2021-05-02 20:54:24
町田 明広 @machi82175302

川村恵十郎は最晩年、日光東照宮禰宜を1898年3月まで務め、1898年6月13日に死去した。川村は明治31年まで存命であったが、明治以降のことになると知られていないことが多い。研究対象にすべき人物の1人。#青天を衝け

2021-05-02 20:55:24
町田 明広 @machi82175302

なお、川村恵十郎について、憲政資料室に「川村正平関係文書」がある。一橋家関係、大蔵省・内務省出仕時代の書類457点、日記1冊(『御巡幸御用取調局仮日記』)、幕末から明治期の書簡約340通が保存されている。#青天を衝け

2021-05-02 20:56:50
町田 明広 @machi82175302

中根長十郎(1794−1863)について、寛政6年生まれで天保9年、一橋家に仕え、のち慶喜の側用人。文久3年10月23日、江戸雉子橋で即時攘夷派の浪士に殺された。70歳。慶喜の上洛直前の凶行であったが、ドラマで川路が平岡に警告していたが、先に中根に害が及んだ。#青天を衝け

2021-05-02 20:58:34
町田 明広 @machi82175302

本日は、川路が水戸藩士に狙われていると平岡本人に告げ、また平岡が「川村恵十郎に斬られるぜ!」的なことを口走ったが、これは平岡暗殺の伏線と見た。#青天を衝け

2021-05-02 20:59:08
町田 明広 @machi82175302

一橋家には有能な家臣がいた。中根長十郎を始めとして、平岡円四郎、原市之進などの有能な家臣も非業の死を遂げた。彼らが皆存命で将軍となった徳川慶喜を支えることができれば、などと、ふと夢想してしまう。それにつけても、川村恵十郎の家臣団での位置づけが気になる。#青天を衝け

2021-05-02 21:00:21
町田 明広 @machi82175302

さて、話を戻そう。渋沢栄一に仕官を断られた平岡円四郎と川村恵十郎は、岡部藩主に渋沢らの召抱の許可願を提出している。平岡はどうしても渋沢を手に入れたく、密かにこうした策略を実行していたのだ。実際の仕官時も含め、平岡の熱意が無ければ、「渋沢栄一」は存在していなかった。#青天を衝け

2021-05-02 21:02:33
町田 明広 @machi82175302

川村恵十郎の日記によると、「九月廿六日庚午晴一朝平岡行今日出勤之由渋沢両人模様大ニ宜敷もはや今日明日之内安部摂津守殿江懸合ニ相成候由」(川村襍日記)とあり、その事実を確認できる。平岡だけでなく、川村の動向も渋沢栄一にとって極めて関りが深いものであった。#青天を衝け

2021-05-02 21:05:29
町田 明広 @machi82175302

しかし、平岡円四郎・川村恵十郎の働きかけは空振りに終わる。岡部藩は渋沢栄一の一橋家への仕官に難色を示した。その詳しい事情ははっきりしないが、自藩の農民が武士に取り立てられることに、何かしらの面白くないとする事情があったのか。#青天を衝け

2021-05-02 21:05:53
町田 明広 @machi82175302

文久3年9月13日、渋沢栄一らは急使を京都に派遣して、尾高長七郎の帰京を催促した。横浜焼き討ち計画の実行が迫ってきたためである。長七郎は坂下門外に連座し、信州経由で京都に逃避し、以降は即時攘夷を標榜する長州藩が席巻していた中央政局の動静を探っていた。#青天を衝け

2021-05-02 21:07:22
町田 明広 @machi82175302

10月29日夜、京都情勢探索から25ないし26日に帰郷した尾高長七郎も加え、下手計村の尾高惇忠宅の2階で、渋沢栄一・惇忠・渋沢喜作・中村三平の5人で横浜焼き討ち計画の詰めの評議を行った。#青天を衝け

2021-05-02 21:08:50
町田 明広 @machi82175302

尾高長七郎は、八月十八日政変の勃発など、即時攘夷派が逼塞せざるを得ない中央政局の情勢を説明し、横浜焼き討ち計画の中止を主張した。渋沢栄一は決行を主張したが、大激論の末に中止と決定した。#青天を衝け

2021-05-02 21:09:25