コミケの生みの親が語る伝説の雑誌『COM』の時代
- pareorogas
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「COM」という本は、編集方針が定まらず、読者を何度か失望させました。「ぐらこん」も会社にとっては販売部数を増やすためのものという面がありました。また、本部だ支部だと言っても有名無実な面がありました。「ぐらこん」の精神には賛同したけれど、頼むに足りない面がありました。
ですから、虫プロ商事出版部の都合なんかに左右されない、漫画ファンのフィールドを作る必要がありました。
「ぐらこん」から、「コミックマーケット」への発展は、それを、漫画ファン自身の企画で実現したという所に価値があります。なんと実行力のあるファンでしょう。「COM」の影響で、ドッと有為な人材が入って来たから可能になったんだとも思いますが、誇りに思っていいんじゃないでしょうか。
そうした行動力とエネルギーが、更なる発展を可能にしていったのでしょう。
「ぐらこん」の精神を作られた真崎守さんはどのように思われるのか、伺いたいものです。
虫プロ時代
霜月:真崎さんは虫プロでアニメの仕事もされていますよね、特に「佐武と市捕物控」は実験的手法で有名 真崎:あれは実は日本で一番安い予算で作ったアニメなんです。通常の30分アニメでは4,000~7,000コマくらい使うんですが、佐武市は1,000コマ以下。後にも先にもあれだけだと思いますよ pic.twitter.com/7N981jGwtt
2020-03-10 21:51:27真崎:「これは視聴率は見込めないな」って最初から上に言われていて、予算が通常の1/4で、(カラー放送時代にも関わらず)白黒だったのもそのせいです。「お前ならなんとか出来る」と言われて考えたのが、あの「静止画でもつ演出」と「カメラワークの工夫」だったんですよ
2020-03-10 21:52:08(客席の「放送枠もゴールデンタイムじゃなかった」「アダルト路線では」に対し) 真崎:子供でも大人でもなく、ビッグコミックとかを読む青年層を念頭に置いてました。GTじゃなかったのもお金がなかったから。居合抜きで着物がはだけるシーンとかもやりたかったですから、結構遊ばせてもらいました
2020-03-10 21:52:36『COM』と「ぐら・こん」
霜月:真崎さんは峠あかね名義でCOMで「ぐら・こん」や「まんが月評」をされてましたが、評論家・峠あかねとまんが家・真崎守の間に葛藤はなかったのですか 真崎:僕は最初はまんがは描いてません。途中から描くようになった時点で評論はすっぱり捨てました。同時にやるのはペテン氏になると思ったから pic.twitter.com/Z1Ruksev7y
2020-03-10 21:54:41霜月:まんが月評を書くに当り、まんが家としての視点はどのように作用したのですか 真崎:まんが家としての視点と言うより、当時の僕は戦後の全てのまんがを読んでました。本屋と契約して、一ヶ月経ったら安く売ってくれって言って、それだけの量を読んでいたことが月評を書けたバックグラウンドです
2020-03-10 21:56:40霜月:「まんが月評」は、自然にまんがに入り込んで書いてるように読めますが、そのような手法は自覚的なものだったのですか 真崎:う~ん、一つ言えるのはね、他人のまんが評論を読むと「その人がまんがを好きか嫌いか」一発で解りますね。自己主張のためにまんがをダシにする人は好きじゃなかったな
2020-03-10 21:59:08霜月:新人登竜門「ぐら・こん」とプロ作品対象「まんが月評」の評論スタンスの違いは 真崎:プロは「読者に伝えるノウハウの優劣」を主眼に、新人は「この人は褒めると伸びるかどうか」を考えて評しました。今の出来が50点でも70点と書いたらさらに良い作品を描いてくれると思えば70点を付けました
2020-03-10 21:59:44真崎:僕は専門学校でも教えているけれど、大事なことは昔から変わっていなくて「コミュニケーションの有無」だと思っています。作り手のハートが読者に伝わることが何より大事で、まんがを描く技術そのものは3年もあれば身につくと思っていますから
2020-03-10 22:00:21霜月:後にまんが家になってから、評論家時代の発言にクレームがつくことはありませんでしたか 真崎:そりゃあもう、飲み屋に行けばいつも絡まれてましたよ(笑)。でも僕はそういう時言ってたんです「じゃあお前も、評論書けば良い」ってね
2020-03-10 22:03:12霜月:斎藤さんがCOMで「まんが月評」を執筆するようになったいきさつは 斎藤:真崎さんと一緒に書いていた人が降りちゃってその後釜っていう感じでね。さっき真崎さんが「当時、自分は日本で一番まんがを読んでいた」って言ったけれど、僕も月評するに当り殆どの雑誌に目を通すことになりました
2020-03-10 22:04:33斎藤:月評時のエピソードと言うと…僕は殆ど(作品を)けなす文章は書いた憶えはないんだけれど、ある女流作家が太宰治の「葉桜と魔笛」の話を使いながらクレジットがどこになかったので、別に恥ずかしいことじゃないから堂々と書いたらって注文を付けたことがありました
2020-03-10 22:05:35斎藤:ある時、楳図かずおさんが描いた作品を褒めたんです。そしたら手塚先生から直接電話が掛かって来て「斎藤さん!あなたは本当にあの作品が素晴らしいと思っているんですか!」って、それで「面白いんじゃないでしょうか」って答えたら、もう一度「本当にそう思ってるんですか!」って言われました pic.twitter.com/rknZPgrmw2
2020-03-10 22:06:46斎藤:そう言われて、ひょっとして自分が(作品を読み違えて)間違ったことを書いたかなと思ってその作品を読み返しましたけれど(自分の中では)間違ってはなくて…手塚先生ほどの方でも、心が狭いなあ(場内笑)…じゃなくて、他人の作品をあれほどライバル視しているなんて凄いなあと思いました
2020-03-10 22:07:16斎藤:もう一つ、あるパーティーで後ろから呼び止められて「実は私、以前まんが月評で作品を褒めてもらったことがあって、すごく嬉しかったんです」って、その文章…って言っても10行くらいですよ、一作あたりは。それを切り抜いてパスケースに入れて持ち歩いているのを見せてくれたんです
2020-03-10 22:08:05斎藤:女性みたいな名前で繊細な作風だったんですがその人立派な体格の男性で、逆にけなしていたらただじゃすまなかったかなと思いましたが(笑)。相手の喜びようを見て、実は自分は大変なことを書いているのかもって思いましたね
2020-03-10 22:08:25霜月:COMは様々な特集や企画記事がありましたが、そういったことを話し合う、編集部内の雰囲気とはどんな感じだったのですか 真崎:二つ印象に残っていることがあって、一つは「土曜日午後に編集部を読者に開放しよう」って言ったらすぐ実現したんですよ。それで地方から来た若者が集まって来ました pic.twitter.com/6iMUSinJcv
2020-03-10 22:10:23真崎:もう一つは、新宿に「コボタン」って喫茶店があって、そこのマスターが「まんが喫茶を始めたいけれど置くまんががない」って言うので、定期的に展示会を開いて、そこもやはりまんがを語る若者たちの集いの場になりましたね。僕らの若い頃はそんなことはなかったですからね pic.twitter.com/GrC4PIkRNM
2020-03-10 22:11:01霜月:真崎さんは自らの月評の「解りやすさ」について「感想文のようなもの」と言われましたが、後にCOMに描かれた「ご時勢なんだモ~ン」(こみっきすと列伝シリーズながら実質的にはイラスト入り文章記事)になると、かなりロジックが駆使された文章作品としての体裁が感じられます pic.twitter.com/1eTPqK9N50
2020-03-10 22:13:28霜月:また、斎藤さんはCOM以降、真崎守論を発表する等、その評論スタイルを深められたと思うんですが、真崎さん、斎藤さんお二方とも、そのようなまんがを語る「ことば」の進化について、当時、例えば「こういう方向を目指すべきだ」とか、自覚的に考えられていましたか pic.twitter.com/qIa47OWaoC
2020-03-10 22:15:23真崎:ある意味、そういう時代はあの頃だけだったかなとも思いますね、こういうものがフリーパスだったのは。それは書き手だけの問題じゃなくて、受け手側にもそういうものを求める要素があったと 斎藤:僕は評論家だから当然なんですけれど、ある程度自覚的にやっていました
2020-03-10 22:17:18斎藤:ただ、これは言葉を選びつつ語らなければならないデリケートな問題なんだけれど、60年代から70年代という「あの時代」がね、まんがだけでなく世の中全体が、良い意味での混乱のさ中にあったんですよ。色々な価値観が生まれ、時代が変わるんじゃないかとさえ思われていた
2020-03-10 22:17:42斎藤:例えば、ジャズからロックに変わった時は衝撃でしたよ。僕はジャズファンだったけれど、コルトレーンは(サックスを吹いているから)絶対に歌えないもの。でもロックはギター弾きながら歌えるんです
2020-03-10 22:17:59