2021年7月11日

コミケの生みの親が語る伝説の雑誌『COM』の時代

明治大学/米沢嘉博記念図書館のトークイベント「伝説の雑誌『COM』 コミックス×​コンパニオン×コミュニケーション」展より 講師:真崎守(峠あかね)、斉藤次郎(教育評論家) 聞き手:原田央男(霜月たかなか/初代コミックマーケット準備会代表) 日時:2012年3月17日(土)16:00~17:30 続きを読む
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『COM』の残滓と「コミケ」黎明期の熱い季節。

多くの才能を世に出しながら、道半ばにして途絶えた『COM』。しかし、その残滓をすくいとり、大きく育てた人びとがいる。今や五十万人以上のまんが・アニメ愛好家が集結する「コミックマーケット」。初代代表の原田央男(筆名 霜月たかなか)氏が『COM』から受け継いだものとはなんだったのだろうか。

『COM 40年目の終刊号』の上梓から二年余りを経て、本誌での特集を知られされた時、『COM』に対する新・旧世代からの関心が未だ衰えぬことを改めて実感した。僕は高校時代に『COM』を愛読したためまんがにのめりこむことになったが、今読み返してみてもその掲載作品の持つ訴求力は、ほかのどんな作品よりも強いものとしてまんが史のなかに位置付けることができるだろう。

矢代まさこを筆頭に永島慎二、宮谷一彦、岡田史子といったプロ・アマの範疇で一括りにできない才能の持ち主たちの作品に僕は酔いしれ、まんが以外でも「峠あかね」の刺激的なまんが論や、「ぐら・こん」各支部からの活動報告に胸踊らせて、毎号を読みふけった。

しかし数年を待たずして『COM』は本屋の店頭から消え去ったが、「ぐら・こん」を通して知った全国に点在するまんがマニア(エリートというべきか?)の存在は、まんがというメディアに寄せる期待の証として記憶に残り、大学時代に同じく『COM』を愛読した知人や後輩を得たことが、後のコミックマーケット開催に向けての最初の足がかりとなった。

『COM』なき時代にまんがに対して、単なるマニアが何をできるのか?

答えを求め、読者の側からまんがに働きかけようと有志が集まり、まんが評論サークル「迷宮」が発足した。

そして「まんが同人によるまんが同人誌即売会」の発想を得てその開催を画策した時、まずもって僕らが心掛けたのは、日本中のまんがサークルのネットワーク化を構想した「ぐら・こん」構想の、挫折の愚を繰り返さぬこと。即ち『COM』を、目的実現のための反面教師とみなすことだったのはなんという皮肉だろう。

それでもコミックマーケットというシステムが成立しえたのは、まぎれもなくそのヒントとなった『COM』が、まんがファンあるいはマニアのあからさまな実態を示してくれたからにほかならない。コミックマーケットが「同人の実態に即した」イベントであったからこそ、それは同人誌の流通拠点となりえたのだ。

むろんこれは「今の」コミケの話ではない。
『COM』の興奮が過去のものとして胸のなかに留まり続けているように、僕のコミックマーケットもまた「迷宮」の熱い活動の記憶のなかにのみ、残り続けているのだから。

●コミックマーケット初代代表・原田央男

―『東京人』No.341「ガロとCOMの時代」2014年6月、都市出版、37頁

リンク Wikipedia COM (雑誌) 『COM』(コム)は、1967年から1973年まで虫プロ商事から発刊された漫画雑誌。 「COM」は、COMICS(まんが), COMPANION(仲間・友だち), COMMUNICATION(伝えること・報道)の略だという。発行は、1966年に旧虫プロダクションから分離した虫プロ商事。 刊行期間は、1967年1月号 - 1971年12月号。1973年に8月号として、1号だけ復刊された(1973年8月1日発行)が、その後、虫プロ商事は倒産した。創刊編集長は山崎邦保、1969年4月号から石井文男。姉妹誌に、虫 3 users
最中義裕 @monakayoshihiro

3月10日は #真崎守 先生の誕生日 2012年3月17日、米図主催「伝説の雑誌COM コミックス×コンパニオン×コミュニケーション」展での真崎守&斎藤次郎対談メモを再整理(司会は霜月たかなか氏) (断片的メモと記憶に頼っての書起し故、事実誤認の可能性有。なお、添付画像の選択は最中の独断です) pic.twitter.com/1Bkw1Y2D03

2020-03-10 21:28:38
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最中義裕 @monakayoshihiro

霜月:真崎さんは貸本劇画デビュー後、虫プロに入社。斎藤さんは教育評論の場から後にCOMで真崎さんと「まんが月評」を執筆しますが、どこで知り合われたんですか 真崎:虫プロ時代、同社の丸山正雄さん-後にマッド・ハウスの社長になる人ですが-の紹介でした 斎藤:彼は僕の大学時代の友人なんです pic.twitter.com/qD8sWwXCoj

2020-03-10 21:29:25
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最中義裕 @monakayoshihiro

霜月:斎藤さんがまんが評論へ進んだきっかけは 斎藤:子供の頃はまんがを読んでいたけど、その後大学まで遠ざかってました。「子ども調査研究所」という所に就職した頃、「巨人の星」とかでまんがブームが隆盛になり、同時に「まんがは俗悪本だから子供に読ませず焚書しよう」という運動も起きていた

2020-03-10 21:31:23
最中義裕 @monakayoshihiro

斎藤:そこで「教育的見地からまんがを悪書扱いするのは止めよう」と、当時としては異端な立場で、大げさに言うと論陣を張りました。まんがを長いこと読んでいなかったのでまずは良く知ろうと、出版社に「倉庫の整理を手伝います」と入り浸り、年表を作りつつ貪り読んで「まんがの現状」を把握しました

2020-03-10 21:31:47
最中義裕 @monakayoshihiro

霜月:すると、COMに書かれる前に、既に他所でまんがに関する文章を書いていたんですか 斎藤:数は多くないけれど、教育雑誌とかに「まんがは悪くない」ってことをカウンターパンチ的に書いてました。でも僕がまんが評論にのめりこんだ決定的な理由は、真崎さんのまんがなんだよね

2020-03-10 21:32:34
最中義裕 @monakayoshihiro

斎藤:真崎さんが青年誌でデビューした時、丸山さんから「これが峠あかねの本業なんだ」って聞かされ驚いたんだけれど、頁数があまり貰えなかったのかコマ割りがやたら小さくて複雑なんだよね。本人はもっと(頁数を貰い)遊びたかったんだろうけれど、表現として全然違う「新しいまんが」だったんです pic.twitter.com/eHBFtllE5i

2020-03-10 21:33:53
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劇画と24年組と漫画主義

最中義裕 @monakayoshihiro

斎藤:その頃だっけ?劇画ってジャンルが生まれたのは 真崎:私は一応、劇画の人です(笑) 斎藤:でもね、劇画って言っても辰巳ヨシヒロさんやさいとう・たかをさんとは全然違う作品だったんだよね

2020-03-10 21:35:13
最中義裕 @monakayoshihiro

真崎:当時の劇画の「劇」はリアルな絵という意味だったけれど、僕にとっての「劇」はドラマの核なんですよ。僕はアニメ出身なのでコマ割りで全部語れるんです。それで、画面自体でどれだけ語れるかではなく、コマとコマの間に「どこまで隠せるか」そちらの方に腐心しましたね pic.twitter.com/hWJE4dnPg8

2020-03-10 21:35:38
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最中義裕 @monakayoshihiro

斎藤:本人は簡単に言うけど、それは当時大変なことだったんです。作品の意味を理解するのが難しくて何度も読み返し、友達と論じ合いました。 そうやって商業目的だけでなく「作家の自己表現としてのまんがが成立する」というのが嬉しくて、それなら自分も評論と言う形で加担できるかもって思いました

2020-03-10 21:37:23
最中義裕 @monakayoshihiro

斎藤:少し時代が前後するかもしれないけれど、24年組って呼ばれた少女まんが家達も、真崎さんの影響を受けたんじゃないのかな? 真崎:いいえ、あの方達は女神です(笑)そんなことを言ったら怒られます。COMの仕事とかでインタビューもしましたが、機嫌を損ねると何も喋って貰えなくなるんです

2020-03-10 21:39:31
最中義裕 @monakayoshihiro

真崎:インタビューに行って10分も経つと「真崎さん、何にも知らないのね」って(笑) 男性まんが家は仕事と私生活は別なんですが。女性の場合は同じなんですよ。少女マンガの何たるかが解るまで3年掛りましたが、すごい世界だなと思いましたね

2020-03-10 21:40:11
最中義裕 @monakayoshihiro

霜月:60年代末頃、多くの青年たちがまんがを読むようになり、まんがを語るための「ことば」が求められるようになって来たと思いますが、COMと同じ頃「漫画主義」という評論誌-同人誌ですが-も創刊されました。斎藤さんはそんな風潮をどう思われていましたか?「漫画主義」にも書かれていましたよね pic.twitter.com/wjIkaIPN4c

2020-03-10 21:41:09
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最中義裕 @monakayoshihiro

斎藤:一回だけね。その後依頼は来なかったけれど(笑)。ただ、この人たち(漫画主義)は、僕は個人的にはあまり良く知らないけれど、「他に語りたいことがあって、そのためにまんがを利用している」みたいな感じでちょっと違和感があったんですよね。勿論そういう手法もあって良いんだろうけれど

2020-03-10 21:42:39
最中義裕 @monakayoshihiro

斎藤:メディア全体を制御・統括したい人にとっては、まんがって「どうでも良い」ものだったと思うんですね。まんがはもともとある意味「おとしめられていた」ジャンルだから自由で良かったんですよ。そういう権力におもねらないエネルギーが再度花開いたのが「エロ劇画ブーム」だと思うね

2020-03-10 21:44:28
最中義裕 @monakayoshihiro

真崎:時代のせいというのは確かにあって、まんがの隆盛は読者人口の推移と連動してます。団塊の世代がわっと増えてブームが起こり、その後の人口減少で衰退、の繰り返し。世間のバッシングと持上げが交互に来ながら50年経ってます。まんがの次にアニメブームが来て、今一番熱いのはコミケだと思います

2020-03-10 21:45:50

「コミケの生みの親」として

最中義裕 @monakayoshihiro

真崎:去年(2011年)、東京と大阪のコミケに呼ばれて、そこで「コミケの生みの親」というレッテルを貼っていただいたんですよ。それはあくまでも(まんが家・真崎守ではなく)COMの(全国組織「ぐら・こん」の提唱者だった)峠あかねとして、COMの延長線上に今のコミケがあるという意味で pic.twitter.com/RW1f4IdEti

2020-03-10 21:46:47
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最中義裕 @monakayoshihiro

真崎:でも実は僕は長いことコミケに行っていなくて、何年か前(貸本時代からの盟友)みやわき心太郎にどうしても来いと言われて行ったんです。会場を一回りして帰ろうかと思ったら「お前はコミケの楽しみ方がまだ分かっていない」と言われ「何だ」と訊いたら「コミケは終わりが一番素晴らしいんだ」と pic.twitter.com/tNJGL9lCTD

2020-03-10 21:47:55
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最中義裕 @monakayoshihiro

真崎:それで終わりに何が起きるかと待っていたら「今年は有難うございました」という館内放送が流れた途端、会場全体が物凄い拍手に包まれ「また来年逢おう」という挨拶が延々30分間も続いて、それがそのまま場外に続き、空港行き遊覧船と駅に向かう橋で皆「さようなら、また来年」と声を上げている

2020-03-10 21:48:36
最中義裕 @monakayoshihiro

真崎:その光景を見て、まさか(自分らがCOMで始めた)まんががここまで凄いことになるとは夢にも思っていなかったので、思わず涙ぐんでしまいました。 何しろ、僕らが子供の頃は、まんがは悪書扱いでしたからね

2020-03-10 21:49:16

終焉とその後

「ぐら・こん」は1971年末の『COM』休刊と共に本誌から切り離され、事実上の終了となった。一方で「ぐら・こん」を継承しようとする動きもあり、「ぐら・こん」の関西支部長だった中島隆は「ぐら・こん」を引き継ぐ内容の同人誌を企画し、『マンガジュマン』に次いで『あっぷる・こあ』を創刊した。しかし主要スタッフの高宮成河が方向性の違いを理由に離脱したことで、1975年にこれも行き詰まる。

中島は後継者を募り、8月か9月に集会を開いたが、応じる者はいなかった(この時に集会で接触した「迷宮'75」の原田央男、亜庭じゅん、米沢嘉博らは、すでにコミックマーケットの開催に向けて動いていた)。結局、九州支部長だった人物が引き継ぐことになったが、この『新生ぐらこん』も2号で消え、完全に途絶えた[8]。

「ぐら・こん」の遺志を引き継ぐ形で第1回コミックマーケットが開催されたのは、1975年12月21日のことであった。

— Wikipedia「COM (雑誌)」より


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