- moltoke_Rumia1p
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@moltoke_Rumia1p 円の戦争で思い出したけど、マリア・テレジア銀貨の話ってどこまで知られているんだろう……
2011-08-15 18:20:47@moltoke_Rumia1p ふむ、ではこの『1780年銘・マリア・テレジア銀貨』(以下マリア・テレジア銀貨)の恐ろしい実体を語らせていただきます。
2011-08-15 18:30:00@moltoke_Rumia1p このマリア・テレジア銀貨、1780年というマリア・テレジア最後の年が刻まれているのですが、必ずしも1780年に鋳造されたとは限りません。それどころか、1780年の銘のまま、20世紀半ばまで鋳造されました。流通先はオーストリア国内ではなく中東です。
2011-08-15 18:32:25@moltoke_Rumia1p 中東ではなぜか、このオーストリア銀貨が決済の手段として20世紀半ばまで流通し続けました。エチオピアは公式に貨幣として採用し、イギリスやフランスも中東植民地において何とか自国通貨を流通させようとしたのですが、結果的には成功しませんでした。
2011-08-15 18:38:09@moltoke_Rumia1p 銀本来の素材価値に由来する物でもなく、マリア・テレジア銀貨よりも品位の高い貨幣が、マリア・テレジア銀貨に劣る比率で交換されていました。
2011-08-15 18:41:24@moltoke_Rumia1p 第1次大戦の後にオーストリアはこの銀貨の鋳造権に固執する必要が無くなり、1935年に鋳造権をイタリアに売却します。そうしたら、『国内で流通している通貨ではないのだから、イタリアの主権は侵害していない』という理屈でイギリス・フランスも鋳造を開始
2011-08-15 18:47:07@giteki ああ、それはあり得ますよ。通貨価値はその国の信用なので貨幣そのものが、より劣った素材で出来ていても、その国の信用がより高ければ高いレートで交換され得ます。
2011-08-15 18:48:30@giteki ( ̄∀ ̄) 中東で銀貨流通されてたのは、かの地域で未だに紙幣への信用がないからではないかと。
2011-08-15 18:50:49@moltoke_Rumia1p 紙幣への信用がなかったにしても、オーストリアの特定の銀貨だけ(オーストリアの他の銀貨は流通せず、英仏の銀貨も宗主国なのに流通しません。19世紀後半以降のオーストリアって英仏と比べてそこまで信用ありましたっけ。)
2011-08-15 18:54:43@moltoke_Rumia1p そしてイタリアはエチオピア侵攻の一環としてマリア・テレジア銀貨の鋳造を握り、エチオピア占領後はエチオピア・リラを流通させようとします。一方、イギリスは『植民地で必要だから』という名目でマリア・テレジア銀貨を鋳造し、エチオピアに送ります。
2011-08-15 18:59:08@moltoke_Rumia1p まぁご指摘の通り、インフレになりました。インフレになり、鋳造費用が発行益を上回るようになったのでイギリスはいったんマリア・テレジア銀貨の鋳造を停止します。
2011-08-15 19:00:17@giteki 決済通貨の信用は認知度や、その国との取引の多寡によりますがおそらくは当時の中東は英仏よりもオーストリアの方が銀貨の認知度が高かったためなのではないかと。(この点は完全に憶測なので、後で調べてみないと正確な話は言えませんが)
2011-08-15 19:03:32@moltoke_Rumia1p そして第2次大戦のアフリカ戦線で、枢軸側・連合側双方が物資調達のためマリア・テレジア銀貨を必要とするようになります。そして、最終的にアフリカ戦線はイギリスが押さえたのですが、結局大戦中はマリア・テレジア銀貨を発行する以外の貨幣政策は不可能でした
2011-08-15 19:05:20@moltoke_Rumia1p 戦後になってもロンドンやパリで1965年頃まで発行されていた(逆に言うと、それだけ必要とされていた)というから驚きです。
2011-08-15 19:19:29@giteki ( ̄∀ ̄) 興味深い話をありがとうございます。よろしければまとめさせて頂いてもよろしいでしょうか。
2011-08-15 19:37:071780年銘のマリア・テレジア銀貨 http://t.co/71z9PzC 成程という理由。 この地域の基軸通貨と化していたのか
2011-08-15 20:13:50http://t.co/71z9PzC これ読むとドルから別の通貨に基軸通貨を切り替えるって、現状では不可能に近い話なんだなぁ
2011-08-15 20:15:31