「荘園」 伊藤俊一

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GMBO2008 @GMBO2008

「荘園は国の役人から干渉を受けることなく自由に経営でき、その成果を子孫に伝えることができたので、農地開発や農業経営の進化が促された。」 twitter.com/asahi_book/sta…

2021-11-20 09:51:46
朝日新聞読書面 @asahi_book

久々の本格的な荘園制通史。「現実の人間が単純ではないように、その人間が作ったシステムも一言で割り切れるような実態をもってはいないのだ」(清水克行さん評) (売れてる本)『荘園』 伊藤俊一〈著〉:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/DA3S1…

2021-11-20 07:12:12
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荘園では年貢・公事物を送る手段も自由に任されたから、そこに中国から輸入された銅銭が流通して、鎌倉時代後期から日本は本格的な貨幣経済に入った。荘園が拡大しなければ、日本の貨幣経済化はもっと遅れたはずだ。 「荘園」 伊藤俊一

2021-11-20 09:51:47
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王朝時代の田堵たちには、かなり激しい浮き沈みがあったが、しかし、王朝時代において日本全体の経済の基盤になっていたのは、他ならぬ田堵たちであった。 「下級貴族たちの王朝時代」 繁田信一

2021-12-18 23:18:41
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というのは、当時は農業こそが基幹産業であったにもかかわらず、国府も、荘園領主も、田堵たちの介在なしには保有する農地を十分に経営することができなかったからである。 「下級貴族たちの王朝時代」 繁田信一

2021-12-18 23:18:41
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在地領主は「在地」、すなわち地元の領主だからといって、地元にべったりの存在ではなかった。在庁官人の多くは受領に伴って都から下ってきた中下級貴族の末裔で、地方豪族の地位を確立してからも中央での拠点を捨てたわけではなかった。 「荘園」 伊藤俊一

2022-01-30 22:11:49
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運が良ければ一族がまた中央の官人に復帰し、受領などに任じられる可能性もあった。また彼らは中央の貴族と主従の交わりを結んでおり、その面での中央とのつながりもあった。在地領主が都の貴族社会と結んだ密接な関係は、西欧などとは違った日本の中世社会を特徴づけることになる。 「荘園」伊藤俊一

2022-01-30 22:11:49
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また摂関期の在地領主の力を過大に評価することはできない。在庁官人が国衙行政を実質的に担ったとはいっても、決定権はやはり国司にあった。別名はあくまで国衙領てあって、認可権は国司にあった。荘園も常に国衙からの干渉を受けていた。 「荘園」 伊藤俊一

2022-01-30 22:11:50
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在地領主がさらに成長するには、こうした箍を外す何かが必要だったのだ。 「荘園」 伊藤俊一

2022-01-30 22:11:50
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院政がはじまって10年後の1096(永長元)年に「永長の大田楽」という騒動が起きた。(中略)この年の5月頃から、庶民から貴族に至るまでが異様な風体をして集団を組み、笛や鼓、ささらなどを鳴らしながら田楽踊りを踊って都大路を練り歩いた。 「荘園」 伊藤俊一

2022-01-30 22:36:39
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この様子を大江匡房は、「一城の人、皆狂えるがごとし」と表現している。 「荘園」 伊藤俊一

2022-01-30 22:36:39
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7月12日には白河上皇の御所で殿上人(三位以上と四〜五位の貴族の一部)たちによる田楽が催された。天皇の秘書官を務める蔵人の藤原成宗が田植えを指揮する田主に扮し、ほかの貴族たちも裸に腰巻を巻いた農民の格好で夜明けまで踊り狂った。 「荘園」 伊藤俊一

2022-01-30 22:36:40
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上級貴族もお高く止まってはいられない時代が来たのだ。ほかの貴族の館や官庁でも田楽は催され、村々で行われている農民による田楽も招き入れて、一緒に神社に参詣したという。 「荘園」 伊藤俊一

2022-01-30 22:36:40
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日本の中世はいつからはしまるのかについては議論があるが、近年は院政の開始を画期もするのが有力だ。明治維新の前年には、社寺のお札が空から降ってきたと人々が踊り狂った「ええじゃないか」の運動が起こったが、永長の大田楽も時代の変わり目に発生した集団的熱狂と言えようか。 「荘園」伊藤俊一

2022-01-30 22:36:40
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また源平の争乱を勝ち抜いて成立した鎌倉幕府は、荘園をめぐって生じるこれ以上の紛争を抑止する役割を果たした。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-13 23:11:09
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(中略) 鎌倉幕府は統一された武力装置をつくりあげて紛争の発生を抑止し、御家人間の所領をめぐる紛争は、有事には軍功によって、平時には公正な裁判によって解決し、どす黒いエネルギーが噴出するのを抑える役割を果たしたと言えよう。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-13 23:11:10
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鎌倉時代後期には地頭などの荘官が領家から自立し、領家も本家から自立する(または本家が領家を排除する)事態が進行し、一つの荘園に三層の領主権があった状態が崩れ、一つの荘園の領域を一つの領主が支配するようになった。この事態のことを「職の一円化」という。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-13 23:19:55
GMBO2008 @GMBO2008

この動きによって、天皇家・摂関家の本家を頂点として、貴族や寺社の領家、在地領主の荘官へとピラミッド型に展開した「職の体系」は崩れていった。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-13 23:19:55
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現物納の時代にはあった、領主が届いた年貢の出来に一喜一憂し、預所と百姓との間に宴の記憶が残っているようなウェットなつながりが代銭納化によって失われ、ドライな銭金のやり取りに還元されてしまうのだ。これはこの後の荘園制の変容を考える上で、無視できない変化だろう。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-13 23:26:04
GMBO2008 @GMBO2008

守護の在京は、地方を治める守護権力の当主を在京させて、京都に集住する領主たちの世界に組み入れることになった。家臣団の一部も在京し、在京活動に要する米銭が管国から送られた。京都の人口は増加し、諸国から物資も銭も集まり、室町幕府の首都である京都は空前の繁栄を見せた。 「荘園」伊藤俊一

2022-03-13 23:31:05
GMBO2008 @GMBO2008

13〜14世紀の農村社会では集村化が進行していた。屋敷が転々と立地していた状態から、村落のなかで場所を決めて家屋を集中的に建てるようになったのだ。その理由は、農地の量的拡大が限界に達したため、集落内の土地を高度に利用するためだったと考えれている。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-13 23:37:14
GMBO2008 @GMBO2008

南北朝・室町時代には、荘園領主や荘官が耕作の指示や援助を行わなくても、百姓の力だけで農業生産を安定して継続できるようになってきた。その結果、領主に対する百姓の政治的立場も強くなったのだ。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-13 23:40:26
GMBO2008 @GMBO2008

上野荘といい、太良荘といい、復興のために新しいことをしようとすると、ほかの荘園の利害に抵触してしまうのだ。地域社会を領域型荘園という独立した小世界で区切った荘園制の限界が見えてきたと言えよう。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-27 22:28:23
GMBO2008 @GMBO2008

ところがクーデターを起こした細川政元も1507(永正4)年に暗殺されてしまい、分裂した細川氏をはじめ、諸勢力が京都をめぐって争奪戦を繰り返した「永正の錯乱)。相次ぐ戦乱により京都の人口は減少し、政治的・経済的重要性も低下した。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-27 22:35:22
GMBO2008 @GMBO2008

これによって荘園制の求心的な経済構造、地方から京都へ向かう物流、京都と地方を往還する商人のネットワークも致命的な打撃をこうむった。 「荘園」 伊藤俊一

2022-03-27 22:35:23
GMBO2008 @GMBO2008

荘園のなかの地域的な単位として村があり、名とは違って制度化されたものではなかったが、集村化とともに村が農業経営の合理化や相互扶助に果たす役割は大きくなっていった。室町時代に入り、土豪が成長するのと並行して村落結合もいっそう強まり、畿内近国に「惣」を名乗る村落が現れる。 「荘園」

2022-03-27 22:52:28