- muggy_weather
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大学に入学して、高校までとは違うぞ、と脅されはしたが、何が違うのかは教えてもらえなかった。おそらく、何が違うのか、どうすればよいのか、を教えられる人は少ないのだろう。そして悲しいかな、最高学府で学ぶことの意義を真面目に考察する人間も決して多くないのだろう。
2011-09-01 13:20:01大学生になると高校生までの勉強が通じなくなる。その理由はおそらく、問題集の有無ではないかと思う。高校生までは(一応)全国一律の教育内容を受けており、試験問題も難度の差こそあるが、問われる事項も同一の範囲に納まっている。それゆえ問題集という、やるべき範囲を指し示すものが存在した。
2011-09-01 11:43:57大学において勉強ができなくなる人、はもしかすると問題を解くこと=勉強と思っているのではないだろうか。目の前に問題が差し出されるからその解き方を覚える。それゆえ問題がないと勉強できない。方法が分からない。
2011-09-01 12:52:13大学においては、勉強すべき明確な範囲というものが示されていない。それは本来大学において、学習に終わりがないからである。いわゆる知のオープン・エンド性が、大学を大学たらしめているのである。
2011-09-01 11:48:25しかし、目次のない本の全体像が掴めないように、大学の授業は全体像が掴みにくい。大学において学生を教授する人々はすべからく何らかの専門家なので、話が局部的になることが多い。
2011-09-01 12:12:26木を見て森を見ず、ということわざがある。大学で教えてもらえるのは木であって森ではない。であるならば、自ら学んでいる学問の全体像を調べる必要がある。マクロからミクロへ。ミクロからマクロへ。この橋渡しが勉強において大事である。時折自分がどこにいるのかを確認していなければならない。
2011-09-01 12:56:44問題集のよいところはベースとなる木が集められ、森になっているところだ。無論木の全てが分かるようになるわけではないが、森を森として認識するために必要な、代表的な木を展示してくれる。ある意味ミクロの集合体であり、それをマクロ的視点で認識しないと問題集の効用は薄れてしまう。
2011-09-01 13:02:07高校まではミクロ的視点でよかった。範囲が限られているし、問われる事柄も学際的なものではない。しかし大学において、おそらく社会においても求められる知は、決してそのように狭い範囲で終わるものではないはずだ。ミクロとマクロを自在に行き来し、必要とあれば分野さえまたがる。
2011-09-01 13:05:27高校と大学における学びの差を認識し、それを学ぶことに活かさないと4年間、授業を聞いているだけで終わってしまう。ツテを頼り、ノート、過去問を得て、模範解答を丸暗記してテストを乗り切る。そこに学びはない。最高学府における学びではなく、人間関係構築の練習場所となるのみだ。
2011-09-01 13:10:31知のオープン・エンド性を楽しめるような仕組みを、高校と大学の橋渡しができるような仕組みを考えなくてはいけない。学ぶことの楽しさを、一人でも多くの人に知ってもらわなければならない。学びは狭い試験用紙の中にない。
2011-09-01 13:22:26先程までの連投は、自分への自戒も込めて。知り合いは知ってるけど、僕は留年崖っぷちだったわけで、器用に大学生活を乗り切ったわけじゃないのです。ただ4年間ろくに勉強しなかったからこそ、見えるものもあるってことです。少なくとも、効率的に単位を取るだけが勉強だなんて思えないのです。
2011-09-01 13:25:41@muggy_weather 連続ツイート面白かったです。私は自発的に興味ある分野について学ぶようになって、初めて答案用紙を目的としない勉強の楽しさに気づきました。
2011-09-01 13:43:45@chiatsuka 面白いと言っていただけて嬉しいです。僕も大学院で自分の興味を追いかけるようになってから、勉強という言葉の意味が変わりました。学校に強制されない勉強をし始めて、ようやく楽しくなってくるのかもしれませんね。
2011-09-01 18:16:26