ブルガリア降下猟兵大隊

ブルガリア降下猟兵部隊を表す「Parachute Druzhina」は直訳すると「パラシュート歩兵大隊」となりますが、ドイツ軍流に「降下猟兵大隊」と表記しています。装備は完全にドイツ式でしたが実戦で降下することはなく、マケドニアでのドイツ軍との戦闘が初の実戦となりました。
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のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

ブルガリアは枢軸同盟国でありながらドイツの戦争への協力には消極的で、マケドニアに占領軍を送ったものの東部戦線では野戦病院にブルガリア赤十字を派遣した程度で、1942年8月には資源をめぐりイタリア軍と戦闘まで発生した。また枢軸国で唯一ソ連大使館も置かれてソ連とのパイプを維持していた。

2020-12-08 21:22:59
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

ブルガリア軍での降下猟兵部隊の設立計画は1940年秋から始まり、空軍内に降下猟兵中隊の設立が決定した。しかし実際の編成は遅々として進まず、1942年になってようやく降下猟兵部隊のための将校、下士官などの基幹要員の人選が始まり、新兵からの志願者募集も開始された。

2020-12-08 21:26:14
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

この結果約5,000名の候補者が集まり、厳しい選考試験に合格した約500名が選抜された。しかしブルガリアには降下猟兵の訓練施設はなく、最初の訓練生として287名が選抜されドイツに送られた。第1陣はリュボミール・ノエフ大尉指揮の144名、第2陣はゲオルギー・アライコフ大尉指揮の146名が続いた。

2020-12-08 22:20:02
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

1942年12月初めブラウンシュワイクの「第3降下学校」で訓練が開始され、同時にこの兵員により2個中隊の編成が計画された。1943年2月に最初の訓練生が帰還すると2個中隊の編成が始まり、3月には2個中隊により「降下猟兵大隊」へと拡大され、大隊はアライコフ大尉が指揮し兵力は427名となった。

2020-12-08 22:29:58
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

1943年半ば以降ドイツ軍の援助により追加の中隊編成が促進された。約300名の訓練生が選抜されセルビアのクラリエボ近郊に移転した「第3降下学校」とニーシの「戦闘学校」でドイツ人教官により本国の降下学校と同じ内容で訓練が行わる、というのが建前であったが実際にはそうはいかなかったようだ。

2020-12-08 22:36:37
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

ブルガリアの参戦方針についてはドイツ人教官の不信感が強く、士官候補生への戦術教育は拒否され、教育内容は実技訓練、機材運用及び輸送機などについての内容に限られた。またブルガリア訓練生を実験的な新器材による危険な降下のモルモットとして使用することもあった。

2020-12-08 22:38:20
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それでも訓練は順調に進んだが4回目の降下での新型パラシュートの実験の際に事故が起こり、訓練生1名が死亡した。訓練生は激しく抗議しハンガーストライキに発展し、9名が扇動者として逮捕され、6か月が予定された訓練は2か月で突然打ち切りとなり、その後の訓練や研究はブルガリア独自で行われた。

2020-12-08 22:42:41
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大隊長のアライコフ少佐は独自に降下野戦マニュアルを制作しなければならなかったが、それでも訓練終了後にソフィア近くのヴズデブナ飛行場で行われた軍幹部への展示演習は無事に成功した。1943年に大隊の一部はマケドニアに派遣され、現地の占領軍で占領任務にも従事したようだがよくわからない。

2020-12-08 22:52:17
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

通常の歩兵大隊と異なり、降下大隊の装備は完全にドイツ式であり、ドイツ製迷彩降下服と降下ヘルメットのほか、ドイツ製のMP-40 、チェコスロヴァキア製のZK-383(M-27)、フィンランド製のM-31などのサブマシンガンを装備した。マケドニア派遣の際にはイタリア軍の迷彩降下服も使用されたようだ。

2020-12-08 22:55:16
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

1943年の秋以降、連合軍のソフィア空襲が激しくなると、1944年1月28日にヴズデブナ飛行場に残った75名を除き、大隊の兵員のほとんどはプレヴェン西方約30㎞のTelish飛行場に移動した。1944年2月10日、降下大隊では指揮官養成のために6か月コースの下士官学校が開設された。

2020-12-08 22:57:18
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

1944年8月ブルガリアは枢軸からの離脱と中立を宣言したが、9月8日ソ連軍はお構いなしに進撃してブルガリアを占領し、首都ソフィアでは共産勢力のクーデターが起こり、新政府はドイツに宣戦布告した。当初新指導部はドイツ人に訓練された降下大隊の忠誠心に懐疑的であった。

2020-12-08 22:59:20
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

大隊は前線勤務を志願した結果、ブルガリア第1軍に配属され、10月10日前線に向けて出発し同日中にポエシェボ村に到着した。しかし大隊長を始めドイツ人に訓練された将校は解任され降下未経験の将校に置き換えられた。大隊の兵力は429名で10月18日にストラシンのドイツ軍陣地への攻撃で初陣を飾った。

2020-12-08 23:11:57
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

この日は正式に「パラシュートの日」に制定された。この攻撃はマケドニアのストラシン~クマノヴォへの攻撃の一環であり、ドイツ軍E軍集団のギリシャからの撤退路の遮断を目的としていた。また1944年10月以降は誤認を避けるためイギリス軍の空挺ヘルメットが順次支給されたとされるが確認できない。

2020-12-08 23:16:06
ブルガリア観光センター @Bulgaria_trip

【ブルガリア語で何て言う?🇧🇬】 10月22日は、パラシュートの日です🪂 ブルガリア語で空はНебеと言います🌤 #今日は何の日 translate.google.co.jp/?hl=ja#view=ho… hukumusume.com/366/kinenbi/pc…

2020-10-23 00:02:25
Drisine @Drisine3601

ドイツに離反した後隣国マケドニアに入国したブルガリア空挺隊。 ブルガリアはマケドニアへの領土的野心がったみたいで長年併合しようと画策してたみたい、ただ枢軸国だったブルガリアは第二次世界大戦で敗北しマケドニアは再びユーゴスラビア領に帰属したみたい pic.twitter.com/pQ3ZNF1ACr

2018-11-03 00:09:12
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のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

大隊は1か月半の戦闘で第7SS志願山岳師団プリンツ・オイゲンを含むドイツ軍部隊と闘い、いくつかの戦いで勝利しクマノヴォ占領時には一番乗りを果たしたが犠牲も多く56名が戦死し151名が負傷した。1945年1月大隊は「混成降下大隊」へと改編され指導部はしぶしぶアライコフ少佐を大隊長に復帰させた。

2020-12-08 23:27:31
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

1945年12月30日大隊の28名が「2級勇敢勲章」を授与された。対独戦勝記念式典で叙勲される降下猟兵たちの写真が残っており、おそらくこの式典で叙勲が行われたと思われるが状況証拠のみで日付など確証はない。 pic.twitter.com/FHUgqs5L36

2020-12-08 23:45:32
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Drisine @Drisine3601

ブルガリアのパラシュート降下部隊 pic.twitter.com/dK0YoCbJ5C

2018-06-03 09:29:39
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マーノシュ @Nasikandar_

ブルガリア空挺はこの髭の彼が大隊長なんだろか 名前は知らない pic.twitter.com/00HllT7v4H

2020-10-13 14:12:12
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JabuJarek @Jabu49487821

@Nasikandar_ これは有名な写真です。 ブルガリアのパラトルーパーパラシュート。 ソフィア、1945年11月24日(昭和20)。 しかし、これは大隊ではありません。 これはただの会社です。 第一パラシュート会社。 訓練を受けたとドイツ...にし、ドイツが主催。 1943年後半(昭和18)。

2020-10-14 01:39:20
JabuJarek @Jabu49487821

@Nasikandar_ 会社と呼ばれていましたが、組織内では「弱い」大隊でした。 79人の将校と非任務の将校+348人の兵士。 写真の将校は大隊全体の指揮官ではありません。 これは第1小隊の司令官です。 ルボミールペトコフ中尉(ЛюбомирПетков)。 1946年の夏に共産主義者によって死刑を宣告された(昭和21)。

2020-10-14 01:41:04
JabuJarek @Jabu49487821

@Nasikandar_ その後、有罪判決を受け(死刑)、他の数人のパラトルーパー、仲間の将校(ジョトソフ、マルコフ、ペトコフ、コジェフなどの副官を含む). 約430人のパラトルーパーのうち、共産主義者は(ショートライアルの後)多くの兵士に判決を下しました。 1946年9月15日、378人のパラトルーパーが残った.

2020-10-14 01:44:32
JabuJarek @Jabu49487821

@Nasikandar_ 興味深いことに、彼らは1945年の秋に常にドイツの武器と装備を使用していました 車を含む ブルガリアのパラシュート大隊の指揮は、ドイツのVWタイプ82オフロード車両に乗っています 司令官はパレード中は歩きません 彼らは車や乗馬の馬に乗っています😉 MP40とBergmann28th IISMGも見ることができます pic.twitter.com/c0bo5k1JcC

2020-10-14 01:51:06
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のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

大隊の戦後も平穏ではなく、1946年夏ドイツ軍の訓練を受けた空挺大隊の将校はアライコフ少佐を除き軍から追放された。アライコフ少佐に代わる専門知識を持った有能な将校はまだいなかったが、1947年11月17日にStefan Kalapchiev少佐が新大隊長に着任し、アライコフ少佐は引退した。

2020-12-08 23:47:11
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

戦後の東西冷戦体制の中で「ブルガリア空挺大隊」は特殊作戦部隊の「第68独立空挺偵察連隊」となり、冷戦終結後は世界の情勢にあわせて改編を繰り返し、ブルガリアの経済危機も乗り越えて2017年2月1日からは国防長官直属の特殊作戦部隊である「第68特殊旅団」としてその歴史を受け継いでいる。

2020-12-08 23:48:36