- sakaki_koheita
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それに対して我が方は二千に満たぬ。多勢に無勢と見られても仕方が無い。しかし、我が方は戦意は旺盛じゃった。治部殿の使者にも「攻め破って武勇を試みられよ」と、それしか言わなかったのう。
2011-09-08 15:20:06大殿が伏見を出る前、我らの手を取り「忠義を尽くして城を守ってくれ」と頭を下げられた。だがこの前から、儂は一命ある時は身を投げ出して御家のために尽くすと決めておった。三河武士ならば、いや心ある武士ならば、当たり前の事じゃ
2011-09-08 16:25:05伏見城は太閤殿下の頃より巨大な改修が加えられた堅城じゃ。とはいえ我らは寡兵。ましてやお城の構造を知り尽くしている西方。城が落ちるのも数日以内かと思われたようじゃのう。
2011-09-08 16:40:05だが、三河武士を侮ってはならぬ。我らは少ない兵でも心を一にし、意地と意気を天下に示さんと奮戦した。すぐに落ちるかと思われた城はなかなか落ちず、西方の滞陣は十日をこえたのじゃ。
2011-09-08 17:00:06最初に城内に入ってきたのは小早川殿と鍋島殿、その後に島津殿の軍勢じゃな。儂は先祖伝来の三原の刀を振るい、何度も敵を退けた。身に着けていた黒糸威の鎧が返り血で赤く染まるほどじゃったのだぞ
2011-09-08 18:00:05そうやって、何度も敵を退けておったが、次第に城内の火事が広がってきよった。明けて八月の朔日、日が昇る頃にはもう、天守にも火が迫っておった。。
2011-09-08 18:35:05儂は腋に傷を受けたので、一旦城の中に入って休んだ。血も止まってきたので、再び外に出て戦おうと思ったが、何と門を守る者が戦死してしまい、門が開かぬ。そのものが鍵を持っておったからのう。そうこうしている内に火の回りが早くなってきおった。
2011-09-08 18:45:05さすがに、最期の頃は日記も書けなかったのう・・京の壮麗な姿や、伏見のお城の様子などを書き留めておけば良かったのじゃが、なかなかそうも行かず・・
2011-09-08 19:10:05その後の歴史は、皆々様がご存知の通りじゃ。勝敗は時の運。西方も我が方も、それぞれ信念を持って戦った。それだけじゃ。そしてその末に、この世界があるのじゃな。
2011-09-08 19:45:05我が家は、関ヶ原での戦の後、先祖伝来の深溝の地に戻る事が出来たようじゃな。その後、何度か領地替えを繰り返しては居るが、常に深溝とは繋がりを持ち続けたようじゃのう。それだけでも祝着至極じゃ。
2011-09-08 20:00:06我が家は、儂と儂の父、さらにその父と、三代続けて戦死にじゃ。この事はむしろ、誇るべきじゃと思うておる。犬死になどではない。それぞれの死に様が松平、徳川のお家を安泰たらしめる、一つの力になったと信じておる。
2011-09-08 20:15:05それは、どの家に仕えるもののふでも、変わらぬものじゃと思うておるがの。我ら三河武士はとりわけ、その思いが強いかもしれぬ。大殿を支えて何十年も苦労し申したからのう。
2011-09-08 20:30:05突然現れたにもかかわらず、暖かく受け入れて頂きまして、次第に様々な事を呟く事が出来申した。こんなまいなー武将(笑)にも関わらず、過分なお言葉を頂いたりもし申した。
2011-09-08 21:06:40