【謎!】国鉄久留米駅は本当に世界的建築家・菊竹清訓の設計だったのか?【情報求ム】
- flange_web
- 17434
- 121
- 5
- 70
@flange_web 久留米出身なので、一連の流れを楽しんで拝見しています。学内に所蔵があったので確認したところ『設計は運輸省下関地方施設部、担当が加藤正』のようです。「菊竹」の文字はどこにもありませんでした。続 pic.twitter.com/adR9gzczvX
2022-05-10 16:44:08@flange_web ただ、この号の印刷については「昭和24年3月20日」とありますし(写真3枚目)、竣工年が1948年というのはおそらく間違いないのかな、と考えます。久留米驛舎については他の作品のように(写真4枚目)文章による説明がなく、手掛かりが少なくて残念、という感じです。 pic.twitter.com/IZNUsUQuJU
2022-05-10 16:53:47@flange_web 下関地方施設部は、関門トンネル(関門隧道)の建設に関わっているようです。ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2…
2022-05-10 17:04:57うわー!さっそく調べてくださってありがとうございます!大感謝です。 コンペの経緯とか書かれてるかなと思ってたらまさかの設計説明文なしとは…。内部はモダニズムというよりアールデコっぽい感じで菊竹建築らしさはあまり感じられないですね… 謎は謎のままですが、かえって盛り上がってきましたw twitter.com/_____yukawa/st…
2022-05-10 22:06:17@_____yukawa @flange_web コメントを失礼いたします。 素晴らしいです!!探してくださって見せてくださって、ありがとうございます。 後に地元の者たちで「げな」話で菊竹氏として伝わってしまったのか…ちょっと地元目線で調べてみたいです。 ゆかわさんも久留米のご出身なのですね。
2022-05-10 22:21:57@flange_web ほんとに謎で、どういう経緯でこうなったのか知りたいです。しかし、「新世紀の建築をめざして(菊竹清訓作品集 4 / 菊竹清訓編著 / 1998)」の巻末年表には久留米駅舎の記載があり、混乱してしまっています、笑 ci.nii.ac.jp/ncid/BA3543140… pic.twitter.com/j3nKrOPgfX
2022-05-10 22:36:12@mutsu_mont @flange_web 小さいころ久留米駅のクジャクを見に行っていた、というのを母から聞いていて、思い出も重なって今回のことはとても気になっています。このツイートで触れた作品集には67年にできた駅舎についての記載がなく、それも気になっています。 twitter.com/_____yukawa/st… pic.twitter.com/quPuW0qFqA
2022-05-10 22:45:02@_____yukawa @flange_web 67年の方は記載がない!そうなのですね。市報とかで紹介されてないかな… クジャクがいた駅舎は、私も記憶が少しありまして。改札近くのホーム側に大きいケージがあったと思います。それの設置を考慮した駅舎設計だったのか…今になって不思議です。
2022-05-10 23:42:05@mutsu_mont @flange_web 以前やまもとさんが、実施設計の点で「納得いかずに発表しなかった」ということを触れられていましたし、作品集にない=菊竹氏が関わっていない、というのも簡単すぎる気がしてしまいます。開き直って、おもしろくなってきたな、と思うことにします笑
2022-05-11 19:09:29『新建築』には菊竹の”き”の字も見当たらず。謎は深まるばかり。でも、ちょっと面白くなってきた。
久留米駅の内外写真や図面など建物の詳細は明らかになってきましたが、結局菊竹さんの関与や設計競技が行われたことが確認できる資料は見つからず… wikiには1945年にコンペ1等とあるけど根拠は書かれておらず、そもそも終戦の年にコンペなんてできたのかと、ちょっと信じがたい気もする。
2022-05-10 22:29:58@flange_web ありえなくはないんでしょうけど、菊竹さんの関与はどうでしょうね。そもそも国鉄駅舎はのちに建築学会長も務める戦前からのモダニスト、伊藤滋が主導して、かつその部下にコルビュジェの事務所に行ってた土橋長俊がいて、特に終戦直後はモダニズム牽引する存在であり、こういうのあり得るんですよね。
2022-05-11 23:24:47@flange_web 「終戦直後はモダニズム牽引する存在であり」というのは、彼らがいた国鉄の建築家達のことです。言葉足らずでした。
2022-05-11 23:27:43@naohikohino 菊竹さんの関与についてはもう少し調べて見ようと思いますが、仮に関与がなくとも質の高いモダンデザインが出来得る素地は十分あったであろうことは同感です。 10plus1.jp/photo-archives… 久留米駅は菊竹作品集でも古いものには記載がなく、後年になってあやふやな情報が年表に登場しはじめ⇒
2022-05-12 00:39:10@flange_web まぁしかし他でもない久留米だけに、なんか経緯があったのかなぁという気がしないでもありませんね。菊竹さんは年上に可愛がられキャラですし‥。
2022-05-12 00:44:08@naohikohino そうなんですよね、地元でも先代、先々代の久留米駅は菊竹建築であるという情報が流布しているようですので、全く無関係とも思えないのですよね。 ほのかな期待を抱きつつ、ツイッタラー皆さんのご協力いただきながら調査しているところです(笑)
2022-05-12 00:54:51ゆかわ(@_____yukawa)さんが『新建築』を調べてくださったおかげで国鉄久留米駅の詳細が判明。その木構造の特徴にも注目が集まり…
1930年代に、モダニズムに影響を受けた四角い意匠を纏った木造建築が建てられてるんだけど、それと似たものを感じる。戦後のRCのモダニズムよりも。RT
2022-05-11 14:39:34>rt どう見ても木造の顔をしていない。というか、木造在来でやるにはでかすぎる。 断面図でトラスの絵があるけど、あんな柱を木造でやるとか考えられないので、集成材を疑いたくなる。戦前は新興木造でヂベルとかやってたはずなので、そっち方面で非常に興味深い架構に見えるな。
2022-05-11 09:40:25note.com/take_housing/n… 新興木造は総力戦体制による動員を背景として、大空間の工場という文脈で取り上げられることが多いが、終戦後のある時点までは生き残っていたんだろうなと。
2022-05-11 09:50:48>RT 菊竹さんは大学生の頃に動員されて、板材と釘、ジベルで新興木構造的な掩体壕の覆屋を作ったりしてたらしい。本当に久留米駅舎コンペ案で木造大空間を提案できたのだとしたら、戦時中の動員経験が素養としてあったからかもしれないですね note.com/shinkenchikush…
2022-05-11 20:05:45菊竹「そのころは材料がないんですよ.板しかない.もちろん大きな寸法の角材はない.そこで,板だけでつくれる構造としてジベルと釘だけでできる2”×4”のようなものを考えました.そうして大きなトラスにして掩体壕を覆い,そこに飛行機を入れておくんです…」 note.com/shinkenchikush…
2022-05-11 20:07:17敗戦後の新建築コンペで佳作となった菊竹清訓と審査員として苦言を呈した清家清。二人に共通するシェル型屋根と軍隊経験についてあれこれ書いてみました。 軍隊経験と建築家|菊竹清訓と清家清、それぞれの戦後民主社会な「格納庫」|たけうち @take_housing|note(ノート) note.mu/take_housing/n…
2018-12-08 21:24:19