「境界人」とは
「彼が子供っぽく見えるのは、彼が境界人だからだ」と書いた時、私が「境界人」という言葉で考えていたのは、たとえばレヴィ・ストロースや小島剛一氏のような学者のことでした。
彼らの行っていることは、社会にどっぷり浸かった「大人」からみれば、怖いもの知らずの「子供じみた」冒険です。本作のウルトラマンは「あえて狭間にいるからこそ見えることもある」と語っていますが、彼が見た風景を知りたければ、彼ら「境界人」の言葉を紐解くべきなのでしょう。子供の眼に映る世界は、驚くほど冷たくて、孤独で、残酷であることが多いものです。
この警句を、実感をもった言葉として話す人、いるのね。『私が「どこも故郷」と言ったのに対して、小島〔剛一〕さんは半音下げるように「どこも異郷」と静かにちょっと寂しげに呟くように言った。>elmikamino.hatenablog.jp/entry/20110907…
2022-02-05 08:24:02なお、私が「この警句」と言っているのは、サイードが引用して有名になったフーゴーの言葉です。引用します。
故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。 あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。 だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。
Rootportさんのツイートを見て
『シン・ウルトラマン』の脚本は「王道」や「テンプレ」をわざと外している部分が多いのだけど、俺が一番デカい〝外し〟だと感じたのは「セントラル・クエスチョン」の分かりづらさ。日本のマンガ業界では「縦軸」と呼ばれることも多い。
2022-06-01 00:47:58『シン・ゴジラ』も、すごく分かりやすいですよね。「日本はゴジラを止められるのか?」がセントラル・クエスチョンであり縦軸です。じゃあ『シン・ウルトラマン』に、そういう分かりやすい疑問ってありました?無いとは言いませんが、かなり分かりにくくありませんでしたか…?
2022-06-01 00:51:31「この映画の主人公は一体何がしたいんだ?」「というか、そもそも誰が主人公なんだ?」みたいな感じで物語を解読しようとしている間に、次から次に「面白い映像」の大洪水が押し寄せてきて、飽きる間もなく気付けば終わっている……みたいな映画だと感じました。
2022-06-01 00:53:42作家さんによる「『シン・ウルトラマン』には『シン・ゴジラ』のような縦軸がない」とのツイート。同感です。
ただし、作品に『縦軸がない』ことは『テーマがない』ことを意味しません。『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』とは全く違うテーマをもった作品です。それは「空想と浪漫。そして、友情。」というキャッチコピーからも明らかでしょう。
それにしても、このコピー、一体いつの時代の青春ドラマなんでしょうか。実際、この映画は青春ドラマです。さまざまな事件の中で、主人公が成長し、友情を育む。「天使(ウルトラマン)が人間になる」という奇妙な青春ドラマではありますが、「子供が大人になる」ことを描く、一片の寓話のようにも読めます。
『非力な子どもをかばって、一人の若者が生命を落としました。その理由を知りたくて、一人の天使が人間になろうとします。彼は最後まで人間のことが分かりません。それでも、子供のように非力な人間たちをかばって、彼は最後に生命を投げだすのでした。彼自身は気づかなかったかも知れません。最後の瞬間、そんな彼の姿は、彼が知りたがっていた「人間」そのものでした。去りゆく彼の姿を見た人間は誰もいません。それでも、そんな一人の「人間」の姿は、もう一人の天使の胸に深く刻まれたのでした。』おしまい。
『シン・ゴジラ』は、大人の映画、
『シン・ウルトラマン』は、子供の映画。
以下、そんなことをつぶやいています。
なお、一つ目のツイートで「『縦軸』はキャッチコピーに明示されている」と書いているのは、『縦軸』ではなく『テーマ』と書くべきでした。予め訂正しておきます。
私も考えてしまった。2つの映画とも『縦軸』はキャッチコピーに明示されている。「現実対虚構」のシン・ゴジラ、「空想と浪漫。そして、友情。」のシン・ウルトラマン。「対」からなる前者の明快さに対して、「と」がフラットに重なる後者。学園ドラマの空気感さえある。>twitter.com/rootport/statu…
2022-06-04 15:07:19シンゴジは徹頭徹尾「現実『対』虚構」の映画だった。対立は、日本(現実)がゴジラ(虚構)を封じこめ、赤坂が矢口プラン後のキャスティングボードを握ることで終わりを迎える。かと見えて、映画は最後の最後で「収束には未だ程遠い」ことを示す。虚構は死なない。対立は終わらない。
2022-06-04 15:07:20言いかえれば、シンゴジは政治劇であり、「大人」の映画だった。「政界には敵か味方しかいない。シンプルだ」と矢口は言う。ゴジラから米国まで様々な外圧が日本を襲うが、それら全ては「内」を変えるための契機に回収されてしまう。大人の世界には敵か味方しかおらず、本当の「外」がない。
2022-06-04 15:07:20対して、ウルトラマンは、シンゴジが排除していた「外」そのものである。彼はこの社会の「内」にどれだけ深く入りこもうとも、その価値観に属することができない。彼は我々から見れば「空想と浪漫」そのものであり、境界人であり、人類学者であり、つまりは、大人達の社会における「子供」なのだ。
2022-06-04 15:07:20「そして、友情」。恋情ではない。恋は三角関係(価値観を共有する大人同士の競争関係)から始まる。大人を見守る「子供」であるウルトラマンは、大人との恋に落ちることができない。浅見との相棒関係は、シンジ-ミサトの反復であり、ここに庵野氏が描きたいテーマがあるのだろう。
2022-06-04 15:07:21友情と恋とは両立しない。そこには理由がある筈だ。昔、スピノザとカントの哲学史的対立から、愛と恋の両立不能性を考えたことがある。ウルトラマンが見せる「無償の愛」は(恋ではなく)友情の最上級だが、それは彼の「他者性のあり方」に由来する。>blog.livedoor.jp/e_rewhon/archi…
2022-06-04 15:07:21思うに、そうした友情を描き、そうした友情を信じ、心動かされてほしいというのが、『シン・ウルトラマン』最大のテーマだったのだと思う。子供であること、子供がいることを忘れないでほしい、と。そして、そんなウルトラマンの姿に感動した人がいるなら、きっとそれだけで、この作品は成功なのだ。
2022-06-04 15:07:212つの『シン』は全く異質な、対立する世界を描いている。『シン・ゴジラ』に熱狂した人ほど『シン・ウルトラマン』に落胆するのも自明なのだ。ただ、私はウルトラマンを信じたい。後者を信じる者がいなければ、前者の世界が成り立たないのも自明の理なのだ。
2022-06-04 15:07:22