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シン・ウルトラマン 感想

私的メモ
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悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

レヴィ=ストロース,L´evi‐Strauss,Claude,順造, 川田


「境界人」とは

「彼が子供っぽく見えるのは、彼が境界人だからだ」と書いた時、私が「境界人」という言葉で考えていたのは、たとえばレヴィ・ストロースや小島剛一氏のような学者のことでした。

彼らの行っていることは、社会にどっぷり浸かった「大人」からみれば、怖いもの知らずの「子供じみた」冒険です。本作のウルトラマンは「あえて狭間にいるからこそ見えることもある」と語っていますが、彼が見た風景を知りたければ、彼ら「境界人」の言葉を紐解くべきなのでしょう。子供の眼に映る世界は、驚くほど冷たくて、孤独で、残酷であることが多いものです。

河樹 彬 @e_rewhon

この警句を、実感をもった言葉として話す人、いるのね。『私が「どこも故郷」と言ったのに対して、小島〔剛一〕さんは半音下げるように「どこも異郷」と静かにちょっと寂しげに呟くように言った。>elmikamino.hatenablog.jp/entry/20110907…

2022-02-05 08:24:02
リンク 記憶の彼方へ 水際の旅、小島剛一さんと共に - 記憶の彼方へ 「闘う言語学者」こと小島剛一さん、襟裳岬にて。 先週のこと、昨年秋に交わした約束通り、ストラスブール在住の言語学者、小島剛一さんが北海道にやって来た。新千歳空港の到着ロビーで初対面の小島さんを出迎え、挨拶もそこそこに、小雨模様の中、道央自動車道、日高自動車道を疾駆して二風谷へ向かった。沙流川の河口に降り立ったときには雨は止み、私たちは生温い潮風に吹かれ、間断なく打ち寄せる白波の音に包まれた。驚いたことに、小島さんは北海道に降り立って数時間後にはもう北海道の懐にすーっと入り込んだように見えた。小島さんにとっ 3 users
リンク 記憶の彼方へ 闘う言語学者、小島剛一 - 記憶の彼方へ トルコのもう一つの顔 (中公新書)作者: 小島剛一出版社/メーカー: 中央公論社発売日: 1991/02/01メディア: 新書購入: 14人 クリック: 159回この商品を含むブログ (49件) を見る 近藤さん(id:CUSCUS)の強い勧めで小島剛一著『トルコのもう一つの顔』(中公新書、1991年)を読んだ。子供の頃、少数民族に興味があると言った私に、世界には名も無い民族もあるんだよ、とある年配の人文地理学者が教えてくれたときの驚きの感情が甦った。存在しないことになっているんだ。彼らについて書くことも 48 users

なお、私が「この警句」と言っているのは、サイードが引用して有名になったフーゴーの言葉です。引用します。

故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。 あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。 だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

エドワード・W. サイード,Said,Edward W.,紀子, 今沢


Rootportさんのツイートを見て

Rootport🍽 @rootport

『シン・ウルトラマン』の脚本は「王道」や「テンプレ」をわざと外している部分が多いのだけど、俺が一番デカい〝外し〟だと感じたのは「セントラル・クエスチョン」の分かりづらさ。日本のマンガ業界では「縦軸」と呼ばれることも多い。

2022-06-01 00:47:58
Rootport🍽 @rootport

『シン・ゴジラ』も、すごく分かりやすいですよね。「日本はゴジラを止められるのか?」がセントラル・クエスチョンであり縦軸です。じゃあ『シン・ウルトラマン』に、そういう分かりやすい疑問ってありました?無いとは言いませんが、かなり分かりにくくありませんでしたか…?

2022-06-01 00:51:31
Rootport🍽 @rootport

「この映画の主人公は一体何がしたいんだ?」「というか、そもそも誰が主人公なんだ?」みたいな感じで物語を解読しようとしている間に、次から次に「面白い映像」の大洪水が押し寄せてきて、飽きる間もなく気付けば終わっている……みたいな映画だと感じました。

2022-06-01 00:53:42
リンク 映画『シン・ゴジラ』公式サイト 映画『シン・ゴジラ』公式サイト 脚本・総監督/庵野秀明 映画『シン・ゴジラ』3.22 Blu-ray&DVD発売! 162 users 103871

作家さんによる「『シン・ウルトラマン』には『シン・ゴジラ』のような縦軸がない」とのツイート。同感です。

ただし、作品に『縦軸がない』ことは『テーマがない』ことを意味しません。『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』とは全く違うテーマをもった作品です。それは「空想と浪漫。そして、友情。」というキャッチコピーからも明らかでしょう。

それにしても、このコピー、一体いつの時代の青春ドラマなんでしょうか。実際、この映画は青春ドラマです。さまざまな事件の中で、主人公が成長し、友情を育む。「天使(ウルトラマン)が人間になる」という奇妙な青春ドラマではありますが、「子供が大人になる」ことを描く、一片の寓話のようにも読めます。

『非力な子どもをかばって、一人の若者が生命を落としました。その理由を知りたくて、一人の天使が人間になろうとします。彼は最後まで人間のことが分かりません。それでも、子供のように非力な人間たちをかばって、彼は最後に生命を投げだすのでした。彼自身は気づかなかったかも知れません。最後の瞬間、そんな彼の姿は、彼が知りたがっていた「人間」そのものでした。去りゆく彼の姿を見た人間は誰もいません。それでも、そんな一人の「人間」の姿は、もう一人の天使の胸に深く刻まれたのでした。』おしまい。

『シン・ゴジラ』は、大人の映画、
『シン・ウルトラマン』は、子供の映画。

以下、そんなことをつぶやいています。
なお、一つ目のツイートで「『縦軸』はキャッチコピーに明示されている」と書いているのは、『縦軸』ではなく『テーマ』と書くべきでした。予め訂正しておきます。

河樹 彬 @e_rewhon

私も考えてしまった。2つの映画とも『縦軸』はキャッチコピーに明示されている。「現実対虚構」のシン・ゴジラ、「空想と浪漫。そして、友情。」のシン・ウルトラマン。「対」からなる前者の明快さに対して、「と」がフラットに重なる後者。学園ドラマの空気感さえある。>twitter.com/rootport/statu…

2022-06-04 15:07:19
河樹 彬 @e_rewhon

シンゴジは徹頭徹尾「現実『対』虚構」の映画だった。対立は、日本(現実)がゴジラ(虚構)を封じこめ、赤坂が矢口プラン後のキャスティングボードを握ることで終わりを迎える。かと見えて、映画は最後の最後で「収束には未だ程遠い」ことを示す。虚構は死なない。対立は終わらない。

2022-06-04 15:07:20
河樹 彬 @e_rewhon

言いかえれば、シンゴジは政治劇であり、「大人」の映画だった。「政界には敵か味方しかいない。シンプルだ」と矢口は言う。ゴジラから米国まで様々な外圧が日本を襲うが、それら全ては「内」を変えるための契機に回収されてしまう。大人の世界には敵か味方しかおらず、本当の「外」がない。

2022-06-04 15:07:20
河樹 彬 @e_rewhon

対して、ウルトラマンは、シンゴジが排除していた「外」そのものである。彼はこの社会の「内」にどれだけ深く入りこもうとも、その価値観に属することができない。彼は我々から見れば「空想と浪漫」そのものであり、境界人であり、人類学者であり、つまりは、大人達の社会における「子供」なのだ。

2022-06-04 15:07:20
河樹 彬 @e_rewhon

「そして、友情」。恋情ではない。恋は三角関係(価値観を共有する大人同士の競争関係)から始まる。大人を見守る「子供」であるウルトラマンは、大人との恋に落ちることができない。浅見との相棒関係は、シンジ-ミサトの反復であり、ここに庵野氏が描きたいテーマがあるのだろう。

2022-06-04 15:07:21
河樹 彬 @e_rewhon

友情と恋とは両立しない。そこには理由がある筈だ。昔、スピノザとカントの哲学史的対立から、愛と恋の両立不能性を考えたことがある。ウルトラマンが見せる「無償の愛」は(恋ではなく)友情の最上級だが、それは彼の「他者性のあり方」に由来する。>blog.livedoor.jp/e_rewhon/archi…

2022-06-04 15:07:21
河樹 彬 @e_rewhon

思うに、そうした友情を描き、そうした友情を信じ、心動かされてほしいというのが、『シン・ウルトラマン』最大のテーマだったのだと思う。子供であること、子供がいることを忘れないでほしい、と。そして、そんなウルトラマンの姿に感動した人がいるなら、きっとそれだけで、この作品は成功なのだ。

2022-06-04 15:07:21
河樹 彬 @e_rewhon

2つの『シン』は全く異質な、対立する世界を描いている。『シン・ゴジラ』に熱狂した人ほど『シン・ウルトラマン』に落胆するのも自明なのだ。ただ、私はウルトラマンを信じたい。後者を信じる者がいなければ、前者の世界が成り立たないのも自明の理なのだ。

2022-06-04 15:07:22
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