"下部構造"認識におけるマル経と主流派の親和性、およびMMTとの乖離

個人主義vs社会秩序
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望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

某所での議論雑感① 古典的、正統派のマルクス経済学(者)が、理論的ないし心情的に主流派経済学、新古典派系に接近してしまうのは何故かについて。 一番説得的だと思ったのは、どちらも物々交換経済を仮想的な”下部構造”として想定しているから、という説明。

2022-06-18 09:01:58
望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

物々交換経済を仮想的な”下部構造”として想定するということは、個人主義的で利害が個人で完結する利己的な取引が”社会””経済”のベースにあると想定することになるので、どうしてもそれを肯定ないし所与とする経済観、世界観になってしまう/ならざるを得ないのかもしれない。

2022-06-18 09:03:16
望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

逆にMMTerは、(実証的な人類史、古代貨幣史の知見に基づいて、)経済の”下部構造”が、(個人主義的な相互の物々交換ではなく、)コミュニティを前提としたコミュニティ内部での相互信用(相互貸借)にまず基礎づけられたと理解する。 貨幣はその中で、信用/貸借の単位として希求されたに過ぎない。

2022-06-18 09:09:47
望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

要するにMMTerは、純粋な個人(個人主義)を”下部構造”としては捉えておらず、そもそも社会集団や社会秩序を基礎として捉えている。 この意味で、主流派経済学はもちろん、古典的なマルクス経済学と根本の部分で乖離しているというのが、鋭い対立や深い溝が生まれる小さくない要因になっているのかも。

2022-06-18 09:35:42
望月慎(望月夜) @motidukinoyoru

もちろん、そもそも社会集団の基礎になっているのは(進化心理学的な)”利己的な遺伝子”の機能なのではないか、と言われた確かにそうなのかもしれないが、そこまで受け入れたとしても、経済的な取引の基礎を、個人主義に置くか社会秩序に置くかは、大きな議論の分水嶺になるように感じている。

2022-06-18 09:40:40