9月15日
なお、この日はシュツーカ・エスコートではなく、制空ミッションのようです。Ⅰ./JG27から18機、Ⅱ.から15機、Ⅲ.から10機で、恐らく稼働機全てを飛ばしたようですね。保有機数はもっと多いのですが、燃料などの関係で時期により稼働機は大きく変化します。特に北アフリカはね。
2011-09-15 00:08:59というわけで、この日は交戦も頻発、戦果を挙げた者はマルセイユ以外にも現れました。今日はヨッヘンではなく彼らにスポットを当ててみましょうか。
2011-09-15 00:11:27先ずはマルセイユの兄貴分、ゲーアハルト・ホムート。彼の所属はこの時Stab I./JG 27 。1654時、「キティホーク」を撃墜しました。JG27の記録に 「キティホーク」とあるのは珍しいです。因みにStabは本部中隊のこと。と言っても、規模は“シュヴァルム”程度なんですけどね
2011-09-15 00:22:15次にヴェルナー・シュロアー。彼は第Ⅱ飛行隊の第8中隊長で、1140~1155時に3機、1645~1703時にも3機、計6機を撃墜する大戦果を挙げています。5機はP-40ですが、最後の1機はスピットファイアⅤだったみたい。この時点でスコアは40、アフリカNo.2の頭角を徐々に…
2011-09-15 00:30:49個人的に興味深いのが、フォン・リーレス・ウント・ヴィルカス。9月7日に“フィフィ”シュタールシュミットと同じく撃墜された人ですが、もう復帰してます。1703時に「P-46」を撃墜し、これが彼の24機目でした。所属は第2中隊です。
2011-09-15 00:37:33他にも新たに「エース」が誕生していたり、初撃墜を記録した者が現れたり、なかなか興味深い日です。敵もP-40が殆どだったようですし、機体の整備が最近行われたばかりで機の調子が良かったことも手伝ったのでしょう。戦果だけを見れば、一方的な戦いだったようにも思えます。
2011-09-15 00:44:109月16日
そんなわけで実は15日に不時着で腕を骨折していたマルセイユは普段どおりの調子にノリノリマルセイユになってたわけでそれが元でイタリアの飛行隊にある悲劇をもたらすのであった・・・
2011-09-16 00:21:509月19日
骨折を理由に“エドゥ”ノイマン航空団司令から飛行を禁止されていたマルセイユですが、1944年9月19日、フカに基地を置いていたイタリアの第4航空団(4° Stormo)に訪問しました。ぶっちゃけ暇だったんでしょうね。
2011-09-19 00:09:06第4航空団は第9,10航空群(9°,10°Gruppo)から成っていて、この頃はリビアと西部エジプトの海岸上空で戦っていました。ですが、イタリアのファイターはなかなかに屈強なのですが、如何せん上層部が馬鹿でしたので、機体の整備環境は劣悪なものでした。フィルターの登場遅くない…?
2011-09-19 00:16:36第9航空群は第73,96,97飛行隊(73a,96a,97a Squadriglia)から成っていて、その内の96飛行隊の隊長を当時勤めていたのがエマヌエーレ・アンノーニ中尉。彼は最終的に9機を撃墜したとされています。
2011-09-19 00:21:54さて、あの“アフリカの星”マルセイユの訪問なのですが、ここは北アフリカ。トリポリ市内ならともかく、フカの飛行場ではやる事がありません。飛行機を飛ばす事を除いては。
2011-09-19 00:30:17ということで、当然のように機をマルセイユに「貸してやろう」という流れになったのですが、部隊の中でもすこぶる調子が良かった機体、それがアンノーニ中尉のC.202 セリエⅢ M7821号機でした。マカロニさんはこの機がふさわしいと考え、得意気にマルセイユを乗せるのですが・・・
2011-09-19 00:35:19その時居合わせたマカロニさんはドイツ語が話せなかった、又はマルセイユがイタリア語わからなかったんでしょうか。説明不足のままマルセイユは颯爽と飛び出し、飛行を堪能した後で、彼はある重大な事に気づきます。「あれ、脚はどうやって出したっけ」
2011-09-19 00:38:48お国によって機の操作法って違うんですよね。こっち方面はさっぱりなんですけど、例えば、スロットルは手前に押すとパワーが増します。おフランスでは逆でした。慣れとは怖いもので、機種変更時の事故ってエースと言えど、案外多いのです。マルセイユもやらかしました。
2011-09-19 00:43:56