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三左衛門事件以降の文覚は精彩を欠き、許されて京へと帰還した後に後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ対馬へ流罪を命じられる。その道中に没した。 #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:14:44![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
平知康は源義経失脚の際に義経との関係を疑われ、弁明のために鎌倉を訪れていた。頼家が家督相続するとそのまま鎌倉に留まり、蹴鞠の相手として側近となっている。 #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:18:19![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
鎌倉幕府初期における合議制は頼家の政治権力剥奪ではなく、むしろ頼家の諮問機関の役割を持っていたのではないかと言われる。 #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:24:32![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
頼家のやる気を削がずに、何とか政治を回していかねばならない。梶原景時が中村獅童で良かった。そうでなければ胃をやられていた。 #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:25:41![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
「政治を回すために選抜された評議員を選出するよ」 「俺もやりたい」 どんどん増えていく合議制メンバー。 #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:26:22![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
意欲もあるし能力も低いわけではない。しかし、偉大な父と油断のならない臣下ばかり。これは頼家ならずとも疑心暗鬼になり涙を流すしかない。 #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:38:39![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
建久10年(1199年)1月13日に源頼朝が急逝すると、嫡子の源頼家は20日に左中将に任じられ、26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代の鎌倉殿となる。頼家は大江広元らの補佐を受けて政務を行い、 後藤基清の讃岐守護職解任や伊勢神宮領六箇所地頭職の停止を命じた。 pic.twitter.com/0TEoCM3Bja
2022-07-17 08:57:41![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
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家督相続から三ヶ月後の4月12日、頼家は訴訟を直接に裁断することを禁じられ、幕府の有力御家人13人による合議制へと移行する。「吾妻鏡」に頼家が恣意で裁決を行った挿話が延べられているほか、大江広元、中原親能、梶原景時ら旧頼朝側近による政治主導への有力御家人の反発もあったと見られる。
2022-07-17 09:02:48![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
家督相続から三ヶ月の頼家に確たる失政の証拠は薄く、十三人の合議制は頼家の独断を防ぎつつ宿老が合議を行い、最終的に頼家が命令を下す方式を取ったと考えられる。問注所や政所の整備も併せ、若年の頼家の権力を補完する体制であった。
2022-07-17 09:08:20![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
十三人の合議制に対し頼家は親裁権を奪われたと反発し、若い近習のみを側に置いた。安達景盛の愛妾を奪って景盛を誅殺しようとした、また陸奥国の境相論で地図の中央に線を引くだけの乱暴な裁定を下したなどと「吾妻鏡」にあるが、「吾妻鏡」には頼家を暗君と定義する曲筆が多く注意を要する。
2022-07-17 09:19:46![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
十三人の合議制の構成者は、京下りの文官以外は北条氏(頼朝の姻戚)、比企氏・八田氏(頼朝の乳母関係)、安達氏(頼朝側近)、梶原氏・和田氏・足立氏・三浦氏は幕府要職である。皆が将軍権力を支える側近であり、千葉氏や秩父氏など地方の有力御家人の意向は反映されていないと見る向きもある。
2022-07-17 09:32:44![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
十三人の合議制は正治元年(1199年)に梶原景時が失脚し、翌年に安達盛長と三浦義澄が病死したことで解体へと向かった。しかし有力御家人による合議制は、北条泰時による評定衆の設置へと受け継がれた。評定衆の長が執権であり、その地位を北条氏が独占することになった。
2022-07-17 09:36:31![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
頼朝の死後落飾し尼となった北条政子を「吾妻鏡」では「尼御台所」と呼び、官位を授かって後は「禅定三品」や「禅定二品」と記し、「尼将軍」という呼称は用いていない。当時の公家も「後家尼二品」や「二位尼」と記しているため、「尼将軍」は後世の呼称と判断できる。 pic.twitter.com/IV4HD6BJrW
2022-07-17 10:29:34![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
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「尼将軍」の呼称で古いものは、1500年頃の「大乗院日記目録」の「故時政之女、頼家実朝公之母儀、号尼将軍」という記述である。江戸時代に入ると北条政子を「尼将軍」と呼ぶ傾向は完全に定着した。 帳箱に尼将軍はひぢをつき(柳多留拾遺)
2022-07-17 10:34:07![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
建久10年1月11日頃には京にも頼朝危篤と漏れ伝わっていたようだ。土御門通親の耳にも届いていたとみえ、自らの右近衛大将就任と源頼家の左近衛中将に昇進を急いだ。頼朝の死のあとでは昇進は延期せねばならない。18日に頼朝逝去が伝わるとこれを秘して除目を執り行った。 #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:04:49![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
頼朝の心の支えであった髻の観音像は北条義時へ。鎌倉の出発点となった「義朝公の髑髏(ニセ)」は源頼家へ。それぞれに鎌倉の象徴が譲り渡される。 #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:07:36![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
梶原景時は頼朝に頼まれたという一心で行動しているのが、裏目に出ているのがつらい。これが「鎌倉の政を私している」とみられてしまうのか。北条政子は「私心なく働く方」と分かっているけど、他の御家人たちは…… #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:10:25![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
一条能保・高能親子と庇護者たる頼朝の死により、一条家は窮地に立たされていた。建久10年2月、能保に目をかけられた源隆保が武士を集め、一条家を冷遇した土御門(源)通親襲撃の謀議を行ったとして逮捕。一条家の遺臣 後藤基清・中原政経・小野義成らも逮捕された。三左衛門事件である。#鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:11:37![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
「三左衛門事件」の三左衛門とは、一条家の遺臣 後藤基清・中原政経・小野義成の三人が、左衛門尉であったためこの名がついた。これに関連して文覚は検非違使に拘束され、佐渡へ流罪になっている。 #鎌倉殿の13人
2022-07-17 20:11:37