多数派至上へと至るロジックと表現規制~そして「わいせつ」へ
多数派至上へと至るロジックが気になる。多数派が失政しようが圧政しようが、それでも多数であることが正義であって人々はそれに従うべきなのだ、という心性があるような気がする。 http://t.co/b5eEjPVm
2011-09-25 21:12:36多数派に(間違っていたとしても)従うようがよい。なぜか? ①後になって間違っていたとわかっても、みんなも間違えたのだから仕方がないと言い訳できる②自分は間違っていると思うが、多数派の意見なのでそちらが正しい可能性があるかもしれない③さしあたって多数派から非難される
2011-09-25 21:18:32「いや、多数派が常に正義だ。後になって『多数派が誤っていた』とわかったというのは、それを誤りだと判断した方が多数派になったということにすぎない」この多数派至上主義。多数派こそが常に正義という正義の操作的定義は、自己欺瞞から目をそらしてくれるかもしれない。
2011-09-25 21:28:11ぼくはこの人を支持するわけではないけれど、そう簡単に否定できないほどには、この感性は広く行き渡っているような気がする。全面的に正しいのではないが、正当性の一端はあるのではないか?
2011-09-25 22:19:36ストローソンによれば、責任が成立するのは、「人々相互の人間的な関係」の中においてであり、その関係の中で、人々は同じ人間としてある程度の善意をもって相手に接することを互いに要求しあっている
2011-09-25 23:04:38例えば、誰かから自分が不当な嫌がらせを受ければその人に対して憤慨する、というように。これは自分対他人の関係だが、他人同士の関係にも当てはまる。誰かが別の誰かに不当な嫌がらせをしていれば、「誰か」に対して憤慨する
2011-09-25 23:05:09この、他者と他者との関係にまで広がった相互への善意の要求を通じて、人々は互いに結びつき共同体を形成する。これが「人々の相互の人間的な関係」であり、この関係性が「責任」の根拠だとストローソンは考える
2011-09-25 23:06:18共同体を支える、人々が互いに要求し合う「ある程度の善意」。自分が思うところのその「善意」が多数派の「善意」であろうというその期待。また逆に、自分の欲求するところは多数派の「善意」には適わないだろうというその後ろめたさ。それは生活するに当たって一つの指針ではある。
2011-09-25 23:10:22実在人物をモデルとした表現について、「一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立った場合公開等を欲しないであろう」場合には、そういう表現をするな、というのも「ある程度の善意」への期待が背景にあると思われる。
2011-09-25 23:16:40ただ「まとめ」に指摘されていたように、人々の「善意」を集計するのは難しいということ。たいていの場合「これが大多数の善意である」という思い込みに過ぎないこと。それによって地獄への道が舗装されているかもしれないこと。そういう危険性は常にある。
2011-09-25 23:23:24表現規制について言えば、非人道的な表現を評して「こんな表現が許されていいはずがない」というのは「善意」に反しているからそういうことを言われるわけだが、「善意」の現れは表現内容そのものだけでなくて、ゾーニングなどの取り扱いをふくめて現れていると解するべきである。
2011-09-25 23:28:27表現規制について考える場合に、表現というのは、その取り扱いもふくめた総体として考えないといけない。漫画単体を見て、こんな表現はけしからんというのは、あまり意味がない。その取り扱いの全体をふくめて「けしからん」かどうかという話ではないか。
2011-09-25 23:34:08まとめの「この人」の感性を共有する人が多数いるだろうにもかかわらず、それをきちんと理論立てて擁護する人がいない方が気になる。実際には、こうした感性で法律やら条令やらが作られているのではないかと思うからだ。これではお話にならない。
2011-09-25 23:40:05漫画表現の取り扱いの全体をふくめて「けしからん」かどうか、というのは、ぼくたちが全裸で外出すれば捕まるが、服を着ていればなんの問題もない、というのと半分くらいは重なる。重ならないのは、漫画が自分の意志で服を着たりはできないということだ。
2011-09-26 00:00:37その辺は、実際難しいところがある。表現物特有の問題。物としてそこにある以上、物そのものとして評価されがちだ。しかし「審査員」が漫画を有害かどうか判定する環境と、青少年がエロ漫画を読む環境はまるで違っている。それを考慮しないといけない。
2011-09-26 00:04:52漫画にもし意志があり、服を着込んでいて、自らを真に欲する人の前でだけ服を脱ぎ内容を開陳するのであれば、表現規制の問題はほとんど発生しない。たぶん、それが描かれた意図からすると、そのような取り扱いを期待しているのだろうと思う。
2011-09-26 00:16:36「いや、それでもそういう表現があるのはけしからん」という見解はあるだろう。公明正大なフラットな世界観にもとづく主張だ。でもその主張は、彼は自分の欲望をすべてさらけ出しても胸張って生きられるとか、そういうレベルの倫理観が前提なんだと思う。
2011-09-26 00:19:58