北条政範の京での急死を伝える『吾妻鏡』元久元年(1204年)11月13日条。またこの事と、この直前に京で畠山重忠の嫡男・重保と牧の方の娘婿である平賀朝雅とが口論に及んだ事が、北条時政と重忠の関係を一挙に悪化させたともされます。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/B9wKkYgSgL
2022-09-04 20:30:31頼朝の観音像を泰時に託す義時。汚れていく我が身を顧みて、我が子には正道を歩んで欲しいという父の思いか。 #鎌倉殿の13人
2022-09-04 20:01:34源実朝については、後に「当代は歌鞠を以て業と為し、武芸は廃るるに似たり」と評価されており、武芸にはさほど興味を示さなかったようである。 #鎌倉殿の13人
2022-09-04 20:10:09北条政範は16歳で従五位下に任じられており、階位では26歳年上の義時と並んでいた。この頃義時は北条家の分家である江間家の当主と見られており、時政の後継は政範と目されていた。 #鎌倉殿の13人
2022-09-04 20:13:22武蔵国の武士団を統率する留守所総検校職は武蔵国の実質的な主権者であり、武蔵守叙任と引き換えに取り上げられるということは実権を失うことと同義である。 #鎌倉殿の13人
2022-09-04 20:14:14「畠山は命がけで抗う覚悟」 後の畠山重忠の乱において、130騎に過ぎない畠山勢を数万騎で襲った北条方は、重忠が武蔵国の武士を糾合して大軍を催すことを恐れていた。 #鎌倉殿の13人
2022-09-04 20:15:34畠山重忠の乱において、三浦義村は縦横無尽の働きをして畠山一族をほぼ根絶やしにしている。祖父の敵を取ったとも考えられる。 #鎌倉殿の13人
2022-09-04 20:39:15大河では義時の死後まで描かれるかどうかは不明だが、この伊賀の方(のえ)ならば実子政村を擁立して伊賀氏の変を起こしそうな強かさがあるように感じた。 (伊賀の方は義時を毒殺したという風聞が立った一方で、伊賀氏の変については無実だったともされる) #鎌倉殿の13人
2022-09-04 21:17:12ここで頼朝が髻に入れていた観音像を持ち出して、頼朝の子や孫を殺めたからこの像の持ち主に相応しくないと泰時に譲る。だが、その頼朝も鎌倉を守るためと、自らの兄弟を殺めさせているからね。逸れもあって髻に観音にすがっていたのにね。 #鎌倉殿の13人
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