「努力」の使い方

 心理学者の渡辺先生のツイートは、環境要因などのせいにしたくないために個人の努力に責任を押し付ける、ということの是非だった。  そこから、成果主義における過程(努力)の評価について考えていたら、哲学科卒の友人から「努力万能主義は格差ロンダリング」というツイートが飛んできたのでまとめてみた。 10/19:補足としてテキスト部分追記
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~~~ynabe39さんの発言要約~~~
 「『能力がある(成功した)⇔努力したに違いない」という論理展開がよくあるが、能力(およびその結果である成功)と努力は1対1対応ではなく、置かれた環境や持って生まれたものもあるよね」ということ。

 努力することを推奨するために、「努力→成功」という考え方を教えられ、それが奇妙に展開すると、「努力しないで成功したものは責められる」や「失敗しても努力したものはほめられる」ということになる。
 本来は成功するための「方法の一つ」として努力があるのだから、奇妙だ、ということ(ではないかと推測)。

てっぺー @Teppei_Yttria

RT @ynabe39: じっさいに能力と努力との関係については「成功者は努力をほめられ」「失敗者は努力不足を責められる」という構図になっている。「努力しないで成功したものは責められる」「失敗しても努力したならほめられる」というのは上記の構図が奇妙に展開したものだ。

2011-10-17 18:24:50
てっぺー @Teppei_Yttria

RT @ynabe39: 自分にいまなにかの能力があることが自分の努力の結果だと思い込んでいる人があまりに多い。学校が人々にその幻想を植え込むことは「日教組の反日洗脳」よりずっと恐ろしい。

2011-10-17 18:26:37

~~~ここから成果主義における努力評価の話~~~
 最初は単純に、「成果主義であれば、成果を得る過程=努力について評価するのはおかしいのではないか」という思いつき。

 成果主義の中で努力について評価したいのであれば、努力によってどんな能力を獲得するかを、得るべき成果として既定しておけば成果主義の中で努力を評価可能になる。

てっぺー @Teppei_Yttria

成果で判断するという割に、成果を得る過程(=努力の部分)を評価したがるのは、成果を得る過程のなかにも成果を求めているから、という入れ子構造があるんだけれども、それって「成果で判断する」を言いたいがための方便にすぎないと思うんだよな。

2011-10-17 18:32:19
てっぺー @Teppei_Yttria

成果主義のご都合主義的使われ方。

2011-10-17 18:33:59
てっぺー @Teppei_Yttria

まあ、求める成果について、あらかじめ判断基準を決めておかないのは、実際に判断しなければいけなくなったタイミングにおいて、基準の決定時と状況が異なるために基準を変えたい場合の保険なんだろうな。

2011-10-17 18:36:31
てっぺー @Teppei_Yttria

結局、その時点での判断基準を明確に決めたことによる不利が発生するのが怖いんだろうか。判断基準を変更したくなったら、その都度、合意を再形成すればいいと思うんだが。成果評価がある種の契約だという概念がないんだろう。

2011-10-17 18:40:56
てっぺー @Teppei_Yttria

○×をつけられる側が「×になるなら×でいい」と思っているんだったら、×になるときは×を付ければいいんだよ。つける側の都合で「×にしたくないから○になるようにしろ」というのは不合理だ。

2011-10-17 18:47:40

 しかし、一般に努力を評価するとなれば、努力したかしなかったかという過程そのものの有無を問うているわけだ。
 そうなると評価は難しい。こういう過程(行為)を経たら努力したと認めます、というのは定義しにくいからだ。
 他人がする努力の評価というのは、評価する側の心証によって決定されている。客観的に把握できない評価基準は、被評価者との間で合意形成できない。
 つまり、客観的に把握できない「努力」は評価に用いるべきものではないということだ。

 ってことを考えていたら、友人からmentionが来た。

~~~ここから友人登場。「格差ロンダリング」の話に~~~

メノコマキリ @menokomakiri

@Teppei_Yttria ただの格差ロンダリングだと思ってる。>努力万能主義

2011-10-17 19:53:18
てっぺー @Teppei_Yttria

@menokomakiri ごめん。「格差ロンダリング」ってどういうもの?

2011-10-17 19:55:20
メノコマキリ @menokomakiri

@Teppei_Yttria 環境や才能や偶然を全部『努力のお陰』にしちゃうやつ。そうすると成功しても嫉妬されなくてすむのと、うだつ上がらないやつを罵倒してもそいつ自身のせいにできる。

2011-10-17 20:00:34
てっぺー @Teppei_Yttria

@menokomakiri 環境要因によって生じた格差の原因を、後天的な努力というものに押しつけることで、格差の原因をロンダリングできるということでいいのかな。

2011-10-17 20:03:28
メノコマキリ @menokomakiri

@Teppei_Yttria そんなかんじ。まー格差云々を論じたいんじゃなくて、そういう論調で自分自身のほんとの状況を判断しずらくさせる手管がいやなだけなんだが。

2011-10-17 20:12:02
てっぺー @Teppei_Yttria

@menokomakiri なるほど。努力の問題じゃねーじゃん、ってことも、努力の問題にしておけば、ヒエラルキーの上位にしてみれば楽だもんな。あなたが下位にいるのはあなた自身のせいなんですよ、っていう納得を強要できるっていうか。

2011-10-17 20:19:05
メノコマキリ @menokomakiri

@Teppei_Yttria 加えて、努力第一にすることで、他人の個性や他に持っている手段や環境を制限するのにも使える。便利。

2011-10-17 20:35:00
てっぺー @Teppei_Yttria

@menokomakiri 便利だよなぁ、ホント。某T社系列では「自責で考えろ」ということをよく言われるんだが、(本来は違う文脈だったんだが)今の努力と同じ文脈でしか使われなくなってきているんだよね。

2011-10-17 20:39:55
メノコマキリ @menokomakiri

@Teppei_Yttria だから、努力って個人的には好きな言葉だけどいいことばすぎて、自分にリソースを隠したり、相手のリソースを制限するために、意図しようとしまいと使われやすいから使い方には注意したいなといつも思ってます。あとそういう風に使ってるやつにも注意してる。

2011-10-17 20:37:23
てっぺー @Teppei_Yttria

@menokomakiri 努力自体は否定しないし、必要なことだとも思っているんだけれども、それは自分自身に向けて使うための言葉なんじゃないかなと思ってる。他人との間でやり取りされる場合には、ホント使い方には気をつけないといかんよね。

2011-10-17 20:48:43

問題が発生している場合、そこには必ず原因が存在する。

社会の仕組みなど構造的な原因や、生まれつきの能力など先天性の原因を無視しておいて、個人の努力に全ての責任を押しつけることは、非常に楽なことである。

社会の仕組みなどは変えることが困難であり、それと比較して容易な個人の努力に逃げ込むことは、努力を押しつけられた個人にとっても、精神的に楽になる場合もある。

しかし、個人の努力は所詮個人の範囲を超えるものではないので、問題解決への影響は小さい。
まして主たる原因が個人の努力にない場合にはなおさらである。
それを無視して、むやみに個人の努力に責任を押し付けるのは、問題の解決責任の放棄とみなされても仕方がない。

 ここまでは、主に会社対個人・社会対個人で考えてきたけれども、友人とのやり取りの最後部分でもでてきたように、個人対個人の間でも同じことは言える。
 
 何しろ、個人の努力というものは他者からも、自分自身からも見えにくいものである。
 見えにくいからこそ、そこに全ての責任を押し付けることは非常に楽なことである。
 他人に努力を要求するのであれば、その楽な方法に逃げ込まないようにする努力も必要だ。