典型的には無意識的な願望を神経症的な妄想を通して満足するような場合にイマージュは活用される。現実界で浮遊しているトラウマや、不満足のままに浮遊している欲動がイマージュとして投影されたりもする。
2011-11-04 22:20:12この世界は幼児が最初に発展させる段階であり、この後に自分の願望を想像しても母親が現実にはいない事を理解して絶望したり、自分から離れていく母親に言葉を持って話しかけるようになると、象徴界へと徐々に移行するようになる。
2011-11-04 22:50:12さらに、このことは、想像界に安住するのを禁ずる父の命令を受け入れることであり、このことは社会的な法の要求を受け入れること、自分が全能ではないという事実を受け入れることと同義である。
2011-11-04 23:50:11この父の命令にあたるものを、ラカンは、フランス語における「non(否)」と「nom(名)」をひっかけて父の名(仏:Noms-du-Pere)と呼んだ。
2011-11-05 00:20:14したがって父の名とは、個別の具体的な父親の姓名を指すのではなく、人である限りすべての子どもに割り当てられ、彼らの行為に一定の限界をもうける、父性的機能のことである。いわば、象徴的な掟である。
2011-11-05 00:50:12つまり、象徴的な掟は、具体的に聞こえたり見えたりはしないものの、さまざまな形をとってわれわれの生活を制禦してくる。そのときわれわれは「自らの限界を思い知る」。
2011-11-05 01:50:16逆に見れば、「これが自分だ」と自己を同定し、自我を確立するためには他者が必要だが、決してそこで真の自己と出会えるわけではない。人は常に「出会い損ね」ている存在なのだ。ここに人間の根源的な空虚さを見出せるとも言える。
2011-11-05 03:20:11このように、彼の言う「我、思わぬ故に我あり」は、フロイトの「エスがあったところに自我が生じなければならない」という警句の別言である。ラカンの鏡像段階論は、フロイトのエディプスコンプレックス理論をラカン流に読み替えたものなのである。
2011-11-05 03:50:11さらに、生まれてからも原初の状態を象徴的にいうならば、乳児の口には母の乳房が詰まっている。これは乳児の必要をすべて満たしているから、言葉を発して何かを求める必要もないし、そもそも口に乳房が詰まっているから言葉の発しようもない。
2011-11-05 05:20:12だが、やがて口から乳房が去る。そこに欠如(もしくは不在)が生まれる。欠如が生まれて初めて、乳児は母を求めるなり、乳を求めるなり、「マー」などと叫びをあげる。これは言語 - より正確には言語活動(仏:langage) - の発生である。
2011-11-05 06:20:12言語とは、人間が自分の頭に思い描いているもの、すなわち想像的なもの(仏:l'Imaginaire)を他者と共有しようとしたり、他者に伝達しようとしたりするために用いる象徴的なもの(仏:l'symbolique)であるから、言語は象徴界のものであると云える。
2011-11-05 07:20:13こうした掟は、象徴的な意味では言語で書かれているわけである。たとえば、不文律や「黙契」といった概念ですら、人間が言語を持たなければ存在しえない。また、掟を与えるのは象徴的な父である。
2011-11-05 08:20:13たとえば、ある大事件に遭遇した人々は、口々にその事件を語る。これは、その大事件という現実的なこと、もしくは現実界(仏:le Reel)を、言語という象徴界(仏:l'symbolique)を以って描き出そうとしているわけである。
2011-11-05 09:20:13これらを集めて「事件の全容を解明しよう」という動きが起こったりする。しかし、マスコミ用語としては耳に親しい「事件の全容」なるものは、実際には語り尽くされるのは不可能である。
2011-11-05 10:20:12同じように、どうがんばっても言葉では現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。ところが同時に、人は「言語でしか現実を語れない」。
2011-11-05 10:50:12