なぜ社会の問題は家庭の図式に矮小化されるのか?

自分用メモ
政治
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籠原スナヲ @suna_kago
この解説の上野千鶴子はすごいですね……江藤淳(と、その問題意識をいまだに引きずる思想家)を完全に斬っている。私は逆に、今のフェミニズムはもっと領域を広げていて、むしろ多くの思想が「この頃のフェミ」にさえ論破されるようなものだ、という印象を持ちました。 @Yuriakatase
籠原スナヲ @suna_kago
(1)母を「自然」、父を「国家」の比喩にすることで、家庭の問題を社会の問題に広げている。(2)その比喩の図式さえ「戦後」において生まれたものだが、江藤はその歴史性を問わない。(3)成熟をめぐる解決を「父になること」へ求めている限り、結局は男性側の問題にしかなっていない。
籠原スナヲ @suna_kago
しかし、問題は全く逆だと思う。なぜ社会の問題は、しばしば家庭の図式に矮小化されるのか。またそうした矮小化が、『成熟と喪失』が書かれた60年代においてはなぜ切実さを持っていたのか。そして、江藤的な「成熟」「喪失」「父」といった言葉を抜きにして、いかに人の生を記述すべきか。
籠原スナヲ @suna_kago
日本における江藤淳の位置づけと、フランスにおけるジャック・ラカンの位置づけは近いのではないか、と前に書いた。というのも、どちらも60年代後半に主著?を出し、社会の問題を家庭の図式(エディプスコンプレックス)に矮小化し、一方ではたしかに、戦後社会の切実さを描いているから。
籠原スナヲ @suna_kago
江藤淳に限って言えば、60年代は安保闘争が起き、戦後における国家や社会の問題(アメリカとの関係)が浮き彫りになっていた。この戦後社会の問題は、そのまま「殺された日本兵と居座る米兵」といった目に見える形を借り、軍隊=男性という表象を通して「父」の問題になったのではないか。

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