原始仏教(大涅槃経)から法華経、日蓮仏法そして創価学会までを結ぶ根本的な思想 凡夫即仏

大涅槃経から法華経、そして日蓮仏法に繋がる根本的な思想に関して考察ものをまとめました。大乗非仏説、釈迦本仏論の破折、南無妙法蓮華経 日蓮と大書された文字曼荼羅に隠された意味、そして鳩摩羅什の翻訳の問題点等多岐に渡る内容を議論しています。
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komekome39 @komesandazo

地涌の菩薩と同じ場所に止まることが許されたが、末法においてはそれは許されないということだろう。虚空会とは死の世界を意味するが、娑婆世界においては信仰の世界、即ち御本尊の座すところを意味する。そこに迹化の菩薩をいつまでも同座させておくことは、末法において文脈上誤りとなる。 続く

2023-05-19 23:32:40
komekome39 @komesandazo

鳩摩羅什はその文脈の意味を完全に理解していたはずだ。だからこそ彼は、インドを離れて中国、そして彼の見知らぬ国に、末法の時代にこの経典が展開して流布されるために、神力品の次に属累品を配置することで、迹化の菩薩を霊鷲山に降ろして信仰の世界の虚空会から切り離したと考えられるだろう。

2023-05-19 23:38:17
komekome39 @komesandazo

では迹化の菩薩の菩薩は末法では活躍の場所はないかというとそれは違う。「我々も又、姿を消しさり、天にて、善を植えていないものたちのために、声を送って善を植える」とあるように、信仰以外の場所での活躍がある。具体的には、薬王菩薩は医療関係者として、妙音菩薩は音楽家や芸術家、 続く

2023-05-19 23:40:57
komekome39 @komesandazo

普賢菩薩は学者や知識人として、地涌の菩薩のの集う虚空会という信仰の場所ではなく、現実の娑婆世界において妙法を間接的に広めるというのが迹化の菩薩の役割と言えるだろう。勿論迹化の菩薩の実態というものはなく、信心即生活という教えの「生活」の部分が迹化の菩薩の働きといえるだろうな。 続く

2023-05-19 23:45:25
komekome39 @komesandazo

結論として、正法、象法までは地涌の菩薩と迹化の菩薩が最後まで同座する二処二会が正しく、末法においては、迹化の菩薩が信仰の場である虚空会から娑婆世界に降りる二処三会が正しいということが言えると思う。こう考えると何一つ矛盾が生じなくなる。

2023-05-19 23:50:50
komekome39 @komesandazo

こう考えるとなぜ、鳩摩羅什が次の箇所を翻訳せずに外したかが理解可能だ。「世尊よ、我々(迹化の菩薩)も又、如来滅後に妙法を流布しよう。我々は姿を消しさり、天にて、善を植えていないものたちのために、声を送って善を植える」。鳩摩羅什版では付属後は地涌の菩薩と同席していないのだから。

2023-05-20 11:38:31
komekome39 @komesandazo

加えて、もう一つ時々取り上げられる鳩摩羅什の翻訳の問題点を考察してみよう。梵語の法華経の方便品には十如是は存在せず、代わりに五何法なるものが説かれている。日本語訳は次のようになる。法とは何であるか、どのようなものか、何に似ているのか、どのような特徴があるのか、どのような性質か。

2023-05-20 11:44:07
komekome39 @komesandazo

ここで注目すべきことは、読んで字の如く、法とは五つの何(どのようなものか)という疑問形で謎を読者にかける形態となっており、しかもその答えはないということだろう。そもそも方便品にて釈尊は、「止めよ、舎利弗よ。法を説く必要はない(略)ただ仏と仏だけが諸法の実相を究め尽くしている」

2023-05-20 11:55:53
komekome39 @komesandazo

と法を説くことを止めようとしている。そこに諸法とは何かという答えを説いたのであれば、文脈がおかしくなってしまうだろう。そして、鳩摩羅什は5つの何(どのようなものか)という謎かけに対して、十つの如是(このようなもの)という回答を、竜樹の大智度論等を参照して回答して訳したと 続く

2023-05-20 12:02:17
komekome39 @komesandazo

いうことが言えるのではないかと思う。それはあたかも、「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」と大聖人が一種の謎かけをして、具体的に寿量品の文底のどこに秘し沈めたかという回答を残さなかったのに対し、『我本行菩薩道』の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給う」と、

2023-05-20 12:08:28
komekome39 @komesandazo

日寛上人が見事な回答を示して見せたことに比類していると思う。最後に、鳩摩羅什版の法華経の普賢品の最後の箇所、「もしもこの経典を受持する者を見たならば、まさに仏を敬うように、立ち上がって遠くから迎えるべきである」。これは原本にはないが、常不軽菩薩品の二十四文字の法華経、 続く

2023-05-20 12:13:39
komekome39 @komesandazo

「我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 当得作仏」から来ているのは明白だろう。念のために梵語の法華経の箇所も引用しておこうか。全く同じことを言っているのがわかるだろう。 huntingtonarchive.org/resources/down… pic.twitter.com/sivIesHCfw

2023-05-20 12:18:37
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komekome39 @komesandazo

一体何のために、鳩摩羅什は「まさに仏を敬うように、立ち上がって遠くから迎えるべきである」という句を法華経の普賢品の終わりに挿入したのか?大聖人の御文を借りれば、「予が如き者の為なり」(観心本尊抄)、即ち、大聖人とその門下である地涌の菩薩のため、ということが言えるだろう。 続く

2023-05-20 21:23:57
komekome39 @komesandazo

鳩摩羅什は、地涌の菩薩の内証は仏であり、上行菩薩とは未来の仏であることを、梵語の法華経を読むことで知っいたということが言えるだろう。例えば自我偈は自我得仏来と「自」で始まり、速成就仏身と「身」で終わる。この二つを合わせると自身となる。勿論この翻訳は偶然でなく意図的である。 続く

2023-05-20 21:28:40
komekome39 @komesandazo

「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」観心本尊抄 これは法華経の一品二半に説かれる法理を、凡夫即仏と大聖人が解釈された御文と言えるが、鳩摩羅什も、地涌の菩薩に関して全く同様の解釈を寿量品に対してしていたと言えるだろう。 続く

2023-05-20 21:35:05
komekome39 @komesandazo

soka.ac.jp/files/en/20170… 鳩摩羅什の訳が如何に優れているか、それは、実際にサンスクリット語の法華経を日本語に訳して、その翻訳で賞を獲得したプロの翻訳家の植木雅俊氏の話を読んでみれば良いと思う。鳩摩羅什はここまでよく考えて翻訳していたのかと改めて驚かざるを得ない。 続く

2023-05-20 21:41:12
komekome39 @komesandazo

今までの議論のまとめを呟こう。大乗仏教は釈尊滅後五百年くらい経ってから出現したものであり、その作者は誰かといえば、その時代の人々であり、残念ながら釈尊の言葉そのもの伝承ではないと言える。これが大乗非仏説の根拠となっているが、それでは法華経は原始仏教とは全く無関係のもので 続く

2023-05-21 21:10:45
komekome39 @komesandazo

あるのかと思って調べてみたら、釈尊の最後の日記である大涅槃教には、法華経の思想の基盤となる思想が見事にみて取れることが今までの議論で判明しただろう。万人成仏、未来の仏の出現の予言、そして人法一箇の三つが法華経のとの主な共通点となる。 続く

2023-05-21 21:13:42
komekome39 @komesandazo

池田名誉会長は法華経の智慧第五巻で「大乗仏教は決して、釈尊と無関係の「非仏説」ではないということです。むしろ、釈尊の真意に迫った結果なのです。勿論誰が説こうと、その教えが優れていれば良いのです。釈尊が説いたから法華経が偉大なのではなく、 続く

2023-05-21 21:16:54
komekome39 @komesandazo

法華経を説いたから釈尊は仏なのです。それが誰であれ、法華経を説いた人が仏なのです」と話されているが、まさにその通りではないだろうか。 それでは大涅槃教に示された万人成仏や人法一箇等の思想は、どのようにして法華経の編集者に伝承されたのか? 続く

2023-05-21 21:19:47
komekome39 @komesandazo

一般的な考え方は、仏典結集に法華経と同様のものが存在しないため、一心欲見仏の修行の中で、戸田二代会長のような体験をして、釈尊の教えの極理を悟ったというもの。もう一つは、釈尊の口伝が小乗仏教とは全く別の形で伝えられ、それを元に法華経が編集されたというものだ。 続く

2023-05-21 21:23:55
komekome39 @komesandazo

どちらが正しいかは今の段階では誰にもわからないだろうが、私はあえて、釈尊の口伝が元になっている説を挙げることにする。その理由は、釈迦は大涅槃経で次のような言葉を残しているからだ。 zen-essay.com/entry/dai-pari… 「たとえばここに1人の修行僧がいて、その人物がこう語ったとしよう。 続く

2023-05-21 21:30:07
komekome39 @komesandazo

『私はブッダからこのような話を聞いた。これが真理である。これが戒律である。これがブッダの教えである』と。もし修行僧がそのように語ったとしても、それを鵜呑みにしてはいけない。しかし理由もなしに排斥してもいけない。 続く

2023-05-21 21:31:05
komekome39 @komesandazo

もしそのような話を耳にしたら、私がこれまでに話してきた言葉と照らし合わせて、または現に存在する戒律にひき合わせて、その者が真実を語っているかどうかをよく考えなさい。」 仮に釈尊が小乗仏教のみの教えを残したのであれば、果たしてこのような遺言を残すだろうか。 続く

2023-05-21 21:33:02
komekome39 @komesandazo

そして、釈迦の遺言に従って、彼が釈迦十大弟子に説いた最後の教えと法華経の極理を照らし合わせてみたら、見事な一致が見られたのは今まで議論してきた通りだ。このような理由から、私は釈尊の口伝説を推すことにする。そして、大乗仏教の大きな特徴としてあげられるのは、 続く

2023-05-21 21:36:30
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