『世界と孤独』(高島屋美術画廊X)/企画:袴田京太朗 に関する議論
@hakakyo もはやインナーサーキットでしかないこの種の「反社会的」試みを批判的に乗り越え、袴田さんがおっしゃった「蛸壺から外にでる」ことが『世界と孤独』展の目的であるならば、その目的自体に僕は関心ありません。外に出て(検証ではなく)何を創造するのかを注視したいと思います。
2011-11-23 00:43:00あなたのいう他者とはいわゆる他人のことですね。僕は他者=理解不能な存在、と理解しています。現在の東北で活動している人が他の地域の人達よりもリアリティがある、という理論を美術のリアリティに置き換えてしまうとしたら、それは美術である意味を放棄することです。@miyamototo
2011-11-23 01:57:39それから僕は美術が社会的なことにコミットすることを批判しているのではない。むしろそれは極めて重要なことだと思います。僕が批判しているのはそのような「そぶり」をすることで、別の理由で作られ実は造形でしかないものにものに価値が与えられてしまうことです。@miyamototo
2011-11-23 02:03:35「そぶりをする」というのは、実際には社会とは関わっていないということです。社会(美術以外の世界)と美術が関わるとき、美術は他者的であるべきだと。目的は蛸壺から出た後の問題です。@miyamototo
2011-11-23 02:09:56「社会に対して美術は他者的であるべき」に賛成した上で話を単純化すると、これは「美術であろうとする主体」と「美術をやめようとする主体」の葛藤であるとも言える。意図的な回避や忌避でさえ、不可避的/積極的な介入に「対する」そぶりである以上、状況のダイナミズムに絡めとられている点は同じ。
2011-11-23 02:45:31@hakakyo 東北を特権的に語るつもりはありません。しかし、3.11は表現者の「リアリティ」を根底から揺さぶった。置き換えではなく、その影響を探りあう照会は必要です。RT @hakakyo 美術のリアリティに置き換えてしまうとしたら、それは美術である意味を放棄することです。
2011-11-23 02:47:00@hakakyo 美術以外の世界=社会なのだとすると、媒介者としてのキュレーターは「蛸壺」をノックする役割ですね。まさにそれを今、僕はしている。RT @hakakyo 社会(美術以外の世界)と美術が関わるとき、美術は他者的であるべきだと。目的は蛸壺から出た後の問題です。
2011-11-23 02:54:07この議論は、3.11に対して具体的な返答を(作品・発表において)出来ていないアーティストの煩悶を代弁する、重要なものだと思った。ツイートをリーディングしてるけどまずそのテキストを読みたいね... RT @goromurayama @halgarga 掲載はチラシだけなんだよ。
2011-11-23 03:18:38「観念的に処理できない場所(被災した現実の東北)」と、「現実離れした...記号化された「社会」」/宮本武典。( @miyamototo )
2011-11-23 03:21:12@ryoheican かんくんのリツイート、ナイスタイミング。今日は鴻池朋子さんの講演(一応テーマが「震災とアート」)があって、結局の着地点から感じたことにすごくリンクしてる。ここではうまくいえないけど。
2011-11-23 03:31:24すごく観念的でともするとファンタジーでしかない言葉の羅列になるけれど、今日の講演会のキーワードは、「作家が変わらなくてもみるひとがかわってしまった/それにふれている人々の在り方がかわる。みえないものをみえるようにつくる仕事/だが、みえないものをもってしまった。
2011-11-23 03:37:02僕は「蛸壺」内で意識的/無意識的に、この問題から目をそらそうとするマインドも強いのではと感じていた。でも今日の研究室のゼミでも図らずともその話題になって、社会的事象にどうキャッチアップするか、個々の表現をいかに社会化するかという点においての、意識上/無意識下での葛藤をシェアできた
2011-11-23 03:52:45「ガラパゴス化を自嘲的に受け入れている昨今の風潮には同調できません。」「ローカルでありオープンであることが前提」とされる「今日的なエンゲージメント」という、ある種理想的にアートが機能することへの志向性は重要なテーマだとも強く同意出来る。
2011-11-23 03:59:15「社会(美術以外の世界)と美術が関わるとき、美術は他者的であるべきだと。」袴田京太郎 ( @hakakyo )問題はやはり社会の中でのアートの立ち位置やその機能性いついて、どういう道筋を立てまた考察していくのかという、点に議題は集約していかざるをえない。極めて本質的な問題...
2011-11-23 04:06:47ルーマンの社会システム論を下じきに考えると、社会とはコミュニケーションを構成要素とした連鎖的ネットワークである。美術が何らかのコミュニケーション因子として作用するのであればそれは社会内部に織り込まれる。その因子として看取されないが、個人に感受される側面(例えば強度)は外部として。
2011-11-23 04:12:08しかし、その強度が次なるコミュニケーションを引き出す可能性は大いにある。展覧会のオファーが、作品の強度によってもたらされることは通常。それは結局のところ「コレハアートダ」というコンテクストがあるから。
2011-11-23 04:42:20@halgarga なるほど、「~界」ってやつね。この分断はコミュニケーションのコードの違いを表しているね。国会中継を観てもどこか要領を得ないあの感じだな。つまり、当該コミュニティにおいてのみ用いられる記号体系の領土化ね。
2011-11-23 05:20:15@goromurayama とするとやはり、その領土化された記号体系に対して決して無限ではない外部があると考えられるよね。それが袴田さんのいう「社会」だよ。
2011-11-23 05:26:27@halgarga うーん、「社会」にそういう意味を託すこと自体に賛同しないな。それっていわゆる「社会人」ってやつと同じだよね。学生のうちは社会に参加してないみたいな認識が含まれているニュアンスを感じるから、なんか嫌悪感あるな。
2011-11-23 05:34:10