『世界と孤独』(高島屋美術画廊X)/企画:袴田京太朗 に関する議論

自身も作家である袴田京太朗の企画によって11月23日(水)から行われる全五回のシリーズ展示『世界と孤独』(日本橋高島屋美術画廊X)。その展覧会のチラシに寄せられた袴田氏自身のテキストを巡る議論をまとめました。
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菅亮平 / Ryohei KAN @ryoheican

@erk_f 「作家が変わらなくてもみるひとがかわってしまった」というのも重要な観点だよね。この言い回しに準じるなら「みえないもの」に覆われる事によって、「みようとするもの」も変わってしまうとでも言うか。それは作家にとっても、鑑賞する側においても、その双方に作用している、と。

2011-11-23 21:42:59
上條 暁隆 @kamijoakitaka

日本橋高島屋美術画廊X、袴田さんキュレーションの東島毅さん個展。今展、色々な意見があるのだろうけど、美術という枠組みの中だけでの言説になっていかない事が大切だと思う。東島さんの作品からは身から漏れ出してしまったような人の本能を感じる。どうにも産み出されていくもの。生の本能。

2011-11-23 21:55:21
菅亮平 / Ryohei KAN @ryoheican

@goromurayama 「世界と孤独」はごろ君が上野毛のトークで言及した「全体と個の狭間で」「引き裂かれる生」とほぼ同義的な意味だね。ごろ君が「ダブルバインド」的社会状況における「積極的相対主義」へ話を進めていたのを思い返しながら、「他者」のふるまいについて考えてる。

2011-11-23 21:56:39
菅亮平 / Ryohei KAN @ryoheican

@goromurayama そう、じゃあ誤読してるかな。世界⇄孤独(=個)の図式と全体⇄個を短絡的に置換して考えてしまってるかも。通底する印象はあったんだんだけどね。

2011-11-24 00:19:18
中島 智 @nakashima001

結局、袴田さんのほうは3.11以前/以降という区切り(変化)においてもなお変わらないものを忘れないための警句なのだろうが、宮本さんのほうは3.11によって総てが変わったという前提に立って美術へも根本的な変化をもとめているようだ。しかし、不可解なのはそこまで「美術」に固執する理由。

2011-11-24 01:49:32
中島 智 @nakashima001

というのは、宮本さんの活動はそんな固執(蛸壷)をとっくに超脱しているものだからだ。もちろん美術(さらにアート)というものはその本質に「他者への開かれ」もしくは「裂け目」を内包する特性をもつので、他者へのコミットメントを旨とする活動には有意なものである。

2011-11-24 01:58:13
中島 智 @nakashima001

そこで気になるのが「ポスト3.11」という言説である。その言葉は3.11を日本人(社会?)の共通体験として敷延してしまう概念操作としてある。そこでは個別(なる他者)の3.11が度外視されている。この概念と同種のものが「美術」であるなら、それは《ジャンル》であって《技術》ではない。

2011-11-24 02:30:02
中島 智 @nakashima001

しかしながら批評家ならまだしも、他者に鋭敏な美術家が「美術」を共通体験(単一ステージ)として在るものと捉えているとは考えにくい。同様に「3.11」を安易に単一の社会問題とみなすことも、単一な社会という概念化におもねることも考えにくい。だから、この議論には不可解さがつきまとうのだ。

2011-11-24 02:49:20
中島 智 @nakashima001

もとより袴田さんも宮本さんも「そぶり」を否定している点は同じである。それは安易な概念化、安易なアイデンティティへのすり替えへの忌避としてある。しかし、どういう因縁からか、美術というコンテクストにおいては「他者」性がぼやけてしまっている印象を否めないのだ。

2011-11-24 03:15:35
宮本武典 @miyamototo

神話の多くは、その発生において喃語のような状態を通過して物語性を獲得する。アーティストにとって「喃語のような状態」は最もスリリングだけれど、永遠に未分化な「はじまり」に留まっていてはだめだ。今は建設する時。建設に向かう喃語と、モラトリアムなそれとを、慎重に区別しなければならない。

2011-11-24 10:48:21
宮本武典 @miyamototo

建築と編集が、今日もっとも創造的に見える。カオスに整合性を与える仕事。カオスを把握・分析する、よき目と耳をもたなければならない。気まぐれな世相をユリカゴにして、心地よく漂白したい表現者にとって辛い時代が到来した。10年後、この国は(自分は)どうなっているか?

2011-11-24 10:59:26
宮本武典 @miyamototo

気がついたら、生々しい「他者」としての役割を引き受けてた。望んだ事じゃないけれど、それも仕方ないことだろう。

2011-11-24 13:48:14
中島 智 @nakashima001

@miyamototo コメント有難うございます。確かにおっしゃる通り、「創造」は不可欠ですね。ただ僕が不可解だと書いたのは、赤坂憲雄さんとも共働なさった宮本さんなら《民衆のしたたかな創造力》というもの実見しているはずで、つまり、その「創造」をいまさら美術に期待する理由なのです。

2011-11-24 17:51:02
宮本武典 @miyamototo

@nakashima001 おそらく僕はすでに《したたかな民衆》であり、だからこそマレビトとしての美術家(による創造)を求めているのだと思います(相手が中島さんなんで、こんな表現ですが…)。いま、石川直樹さんと来年のプロジェクトをつくっているところで、テーマは『異人』なのです。

2011-11-24 18:35:05
宮本武典 @miyamototo

うん、《したたかな民衆》であれって、すごく大事だな。じゃないと知らない間にとんでもないことになってる。

2011-11-24 20:05:33
中島 智 @nakashima001

@miyamototo そして「マレビトとしての美術家」、素晴らしいですね。ここで袴田さんの「他者としての美術家」との接点がやっとあらわれたという感慨を覚えます。もちろんそれは僕からみると必然に思えます。「異人プロジェクト」、とても楽しみです。また具体的なこと、お知らせください。

2011-11-24 20:07:21
袴田京太朗 @hakakyo

今回の「世界と孤独」についてさまざまな反響があり、僕自身じっくり考えるきっかけになりました。いうまでもありませんが、美術と社会の関わりついては今結論がでるようなことではなく、これからも常に考え続いていくべき問題です。もう少しだけ僕の意見をつけ加えさせて下さい。

2011-11-25 16:53:31
袴田京太朗 @hakakyo

美術の役割のひとつは社会的なことを全く違う視点で捉えて、そこに問題を発見し、それをまた社会に還元することだと思う。「全く違う視点」には美術の社会に対する「他者性」がどうしても必要だ。おそらくそこには摩擦があり、それを僕たちは受け入れる覚悟をしなくちゃならないんだと思う。

2011-11-25 16:59:23
袴田京太朗 @hakakyo

たとえば「住」に関わっている建築は、こういう状況の中で伊藤豊雄らが「みんなの家」というプロジェクトでプリミティブな住宅の原型のようなものを模索している。家や町がなくなった状況に対する真っ当なアプローチだ。贅肉を削ぎ落とすことで建築とは何か、という問いへのヒントにもなる。

2011-11-25 17:05:37
袴田京太朗 @hakakyo

そういうことでいえば美術は衣食住には関わらない。美術は好奇心や想像力に関わる。この状況でプリミティブな好奇心や想像力の原型について考えてみる必要があるのかもしれない。しかし抜き差しならない状況の被災地からそういうことが望まれることがあるだろうか?

2011-11-25 17:11:10
袴田京太朗 @hakakyo

「望まれることがあるかどうか」ではないのかもしれない。しかし少なくとも美術に関わる僕らは今、贅肉を削ぎ落とすつもりで考える責任がある。被災地のことをセンチメンタルなネタにしたような作品と、全く違う視点で社会とコミットしようとする作品をきちんと選別する力を持つこと。

2011-11-25 17:16:36
袴田京太朗 @hakakyo

「ここで袴田さんが指す社会は…?」という質問ですが、今回は美術がその外部にどう関わっていくべきか、という美術の側から発言する時に便宜上(社会=美術以外のもの)とらえています。視点が違えば美術が社会に含まれることもありますし、正確な定義は難しいですね。@habukonzern

2011-11-26 13:21:56
中島 智 @nakashima001

議論が途中切れになっているが、袴田さん: @hakakyo の最終的な所感は彼のTLを覗いてほしい。重要な問題群がある。 RT @100seaya: 『世界と孤独』(高島屋美術画廊X)/企画:袴田京太朗 に関する議論」をトゥギャりました。 http://t.co/S3XnNhs0

2011-11-27 18:02:31