時点と時空位置の形而上学
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拙論「死の害の形而上学」(『科学基礎論研究』, 39巻1号, 2011年, pp. 13-24.)が出版されました。大ざっぱに言えば、「死は私たちから価値あるものを奪う」という考えを保持するために、時間や持続に関するどのような形而上学を採用するの良いのかを論じた論文です。
2011-11-29 07:21:42@iklog さんの基礎論論文読了。議論の本筋にあまり影響のない部分ですが、ひとつ疑問がわきましたので、ここに書いておきます。
2011-11-30 14:08:44@iklog 三次元主義+永久主義のもとでは、無時間的存在と時間的所在関係はどちらも原始概念として扱われるとのことですが、時間的存在テーゼは無時間的存在を時間的所在関係で分析できるということを示しているわけではないのでしょうか?
2011-11-30 14:09:24@iklog もし示しているとすれば、原始概念の多寡の点では、三次元主義+永久主義は四次元主義+永久主義と同等に評価されることになると思われるのですが。あるいは、時間的存在テーゼを導入する前の「少なくとも物質的対象については」という但書きが何らかの仕方で効いているのでしょうか?
2011-11-30 14:10:17@autochromatics 返信遅くなってしません。最初の意図としては、時間的存在テーゼは無時間的存在を所在関係で分析するものではなく、単に両者の間の論理的関係を明示化したものと捉えてまいました。ただ、分析と見なすことはできないのかという問いは確かにありえますね。
2011-12-01 00:42:26@autochromatics しかし現在のところ、分析と見なすことは難しいかなと思っています。論文でもこの原理は抽象的対象には成り立たない可能性を考えていましたが、もっと単純に、時点そのものについてはこの原理を適用できそうにないというのがあります。
2011-12-01 00:43:06@autochromatics なので、あくまでもこのテーゼは限定された対象にのみ成り立つ主張で、一般的に無時間的存在の概念を分析したものとはみなせないのかな、と思っています。
2011-12-01 00:46:37@iklog ご回答ありがとうございました。抽象的対象が時空的な位置づけをもたず、かつ、無時間的に存在するとすれば、分析とはみなせないということですね。なるほど。「時点そのものについては~」ということは、時点を存在者とみなす見方もあるのですか・・・。形而上学おそろしい。
2011-12-01 01:03:51@iklog @autochromatics 横からすいません。時点はその時点に、(つまり自分自身の内に)あると考えるのはまずいでしょうか。
2011-12-01 01:28:57@iklog @autochromatics 「アメリカはアメリカにある」は、情報量はないですが、かならずしもまちがいではありません。同様に、10月10日の正午という時点がその時点の内にあってもおかしくはないように思います。
2011-12-01 01:29:34@at_akada うむむ。それはちょっと約定に近いような気も。あと、「時点は二つ以上ある」の「ある」はどうでしょう。@autochromatics
2011-12-01 01:44:15@iklog そっちは無時間的な存在のように思われますね。もちろん無時間的な意味でも存在してるんですが、時点は、所在もしていると考える余地はあるように思われますよ。 @autochromatics
2011-12-01 01:50:19@iklog いずれにせよ、抽象者の問題があるので、無時間的存在を所在に還元できるわけではなく、本質的な問題ではありませんが... @autochromatics
2011-12-01 01:51:34@iklog いずれにせよ、抽象者の問題があるので、無時間的存在を所在に還元できるわけではなく、本質的な問題ではありませんが... @autochromatics
2011-12-01 01:51:34@at_akada @iklog ううむ。私の頼りない直観では、「時点は二つ以上ある」のような言明は、文字どおりにではなく、時点を数直線上の位置のような仕方で空間的にモデル化した上で理解されるからこそ許容される言明だ、という気がします。ベルクソン的、と言いますか。寝ます。。。
2011-12-01 02:09:08@at_akada @iklog 一般的に言えば、言語的直観を探る際に、分析対象それ自体に由来する性質と、分析対象を理解する為に(しばしば暗黙裏に)導入されるモデルに由来する性質とをどう区別するか、という問題がここには潜んでいるように思います。ということで今度こそ寝ます。。。
2011-12-01 02:22:34@autochromatics @iklog そうですね。そういう発言をする際、時点を、時間の外において(おそらくは空間的に)捉えているようにも思えます。一方で、時点というものをそれ以外の仕方で捉えられるのか、難しいです。
2011-12-01 02:41:50@at_akada あ、なるほど。還元は目指さないわけですね。うーむ。「アメリカはアメリカにある」は、「アメリカ(という国)はアメリカ(という国が位置する場所)にある」と読む気がするんですよね。だから、ちょっと時点の場合とは違うかなと。@autochromatics
2011-12-01 15:03:32@iklog そうですね。「時点が数えられるという性質は時間の空間化に由来するものでない」という主張が正当化されない限り、その可能性は排除されていないと思います。 @at_akada
2011-12-01 15:41:19@iklog しかし「アメリカ(場所)」はどこにあるのかと改めて問われれば、(1)空間的に位置を持たない、(2)アメリカ(場所)にある、(3)それ以外の場所にあるの内(2)が一番もっともらしく思えます。 @autochromatics
2011-12-01 16:14:01@autochromatics うーむ。私たちは時点や期間に対する量化を日常的にも行うと思うのですが、それが文字通りには真ではないというのは困りませんか。「のんびりしていた時期がある」とか、「私が出会ったどの時点でも太郎はパンを食べている」とか。@at_akada
2011-12-01 16:17:50@at_akada (4) 問いが意味をなさない(意味をなすように見えるのは、「アメリカという国がある場所は、地図上のどの場所と同一なのか」といった問いとして理解されるから)という選択肢を取りたいような。しかし私もちょっと確信はなくなってきました。@autochromatics
2011-12-01 16:25:35