時点と時空位置の形而上学

@iklog氏の論考「死の害の形而上学」(『科学基礎論研究』39-1)に対する@autochromatics氏の疑問から始まり,@at_akadaも交えてなされた議論のまとめ.(最後に同論考への@at_akada氏の疑問とそれへの回答も収録.)
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is @iklog

@at_akada 質問ありがとうございます。第一に、四次元主義者がもし「内在的性質は時点との関係ではない」と主張するならば、「友達であるという関係は、太郎と花子の間に成り立つ関係であって、太郎と花子と時点の間の三項関係ではない」と主張すべきではないのでしょか。

2011-12-02 11:14:13
is @iklog

@at_akada さらに、四次元主義版性質帰属を外在的(関係的)性質に適用しないならば、内在的性質の変化と外在的性質の変化の説明は全く異なることになります。(つまり、変化の説明が性質によって大きく変わることになる)と。

2011-12-02 11:18:07
is @iklog

@at_akada しかし、なぜそのような違いが生じるのかについて実質的な説明がなければ、それは大変にアドホックな扱いではないかと。「それが外在的性質だからだ」というのは、そうした違いの説明にも正当化にもならないと思います。

2011-12-02 11:20:41
is @iklog

@at_akada あと、補足ですが、外在的性質の中には四次元主義版性質帰属で問題なく扱えるものがあります。例えば、〈友達である〉や〈殴る〉といった関係です。したがって、四次元主義にとって問題になるのは外在的性質一般ではなく、外在的性質一般を例外扱いする理由はないと思います。

2011-12-02 11:29:53
at_akada @at_akada

@iklog 返答ありがとうございます。なんとなく、性質の項がひとつ増えるより、関係や外在的性質の項がひとつ増える方が抵抗は少ない気がします(あくまでも個人的な感じ方として)。この点についてはこれくらいで、次の質問をさせてください。

2011-12-02 11:53:43
at_akada @at_akada

@iklog 質問2 剥奪の害によって死の害を説明されてますが、剥奪の害によって説明されるのは「害は自覚される必要がない」というだけであって、「存在しない時点においても害をこうむる」の説明にはなっていないのではないか。

2011-12-02 11:57:18
at_akada @at_akada

@iklog 剥奪の害による説明は死後の状態が、福利について、生きている状態と比較可能であることを要求します。しかし、「死んでいる状態はどれくらい幸福なのか」という疑問は意味をなさないのではないでしょうか。

2011-12-02 12:01:15
is @iklog

@at_akada はい。この論文では、その点を正当化できてはいないですね。単純に私の考えを述べるならば、私は、死んだ状態の福利は特定の値(ゼロという値。ゼロ以外の値を取る可能性も考えています)をちゃんと持っていると考えています。

2011-12-02 12:11:59
is @iklog

@at_akada なので、死んだ後の福利と生きていたら得られたはずの福利を比較することは可能だと考えます。

2011-12-02 12:13:07
is @iklog

@at_akada 死んだ状態の福利と生き続けた場合の福利は比較不能だという人の考える人の気持ちは理解できるつもりですが、そこには反対したいと思っています。実際私たちは、様々なケースで生きている状態と死んでいる状態の福利を比較していると思いますし。

2011-12-02 12:17:25
is @iklog

@at_akada 例えば自分が深刻な病気の時に、死んだ状態のほうが死なない状態よりも自分にとってよいという判断をしうるし、それは十分に根拠を持つことがあると思います。こういった判断が全部意味をなさないというのは、あまりに強すぎる主張ではないかと。

2011-12-02 12:19:21
is @iklog

うわ、またタイポ…。「比較不能だという人の考える人」→「比較不能だと考える人」

2011-12-02 12:25:01
at_akada @at_akada

@iklog ありがとうございます。そういえば、以前もほぼ同じ内容を聞いた気がしますね……。

2011-12-02 12:35:37
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