三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』読書メモ

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かんた @0sak1_m1d0r1

二十世紀の初頭、哲学者のアンリ・ベルクソンは、生まれたばかりの「映画」を否定して、それは所詮、「止まったもの」で「動くもの」を不器用に再構成しようとする技術にすぎず、本当の意味での「運動」や「変化」を取り逃すだろうと宣告した。 (三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』p22)

2023-10-12 20:03:09
かんた @0sak1_m1d0r1

純、あかり、桜子、芙美は、それぞれ、反射しあい、微調整される関係性のなかではじめて存在しうる「演技的存在」であるからだ。だから、重心の変容は、まあたらしく、彼女たちを生まれ変わらせるのだ。 (三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』p52) →おもろいな

2023-10-12 20:16:47
かんた @0sak1_m1d0r1

おそらく、この「ただ見てるだけ」の意味は、たとえば有馬温泉で「はじめまして」と言い合いながら正対し合う幸福な対関係において生じていた、あの支え合いの手応えをまったく欠いているということではないか。 (三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』p64)

2023-10-12 20:22:15
かんた @0sak1_m1d0r1

三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』を読んでいて思うのは、本当に優れた作品分析は「論者がこう読もうとしてるんだな」と感じさせないということ。

2023-10-12 21:52:01
かんた @0sak1_m1d0r1

以前、ある先生がゼミで「そういう論述をすると、論者の<手つき>みたいなものが見えちゃうから」とおっしゃっていて、そのときはあんまり意味がわからなかったけど、今ならわかる気がする。

2023-10-12 21:53:56
かんた @0sak1_m1d0r1

二重の変化とは何か、まとめるとこう言える。--第一に、人間関係=重心が変わる。第二に、それと並行して、「自己像」が変わる。そのときの自己の感触(しっくりくるかどうか)が変わるのである。 (三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』p114)

2023-10-13 02:19:01
かんた @0sak1_m1d0r1

「「開口部」を設けることは、シナリオ外の「素」のリアクションを部分的に取り込んで、迫真性の印象を高める、という小手先の操作ではない。そうではなく、そのようにして取り込まれた外部の要素が、それ以降の『ハッピーアワー』の展開を徹底的に変える可能性さえ有している、

2023-10-13 10:40:57
かんた @0sak1_m1d0r1

という印象を私たち観客は強く持つ。」 (三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』p121) →劇中でこずえが朗読したテクスト『湯気』が「こずえを演じる女優自身によって創作されたものである」ということからしてまず驚き。

2023-10-13 10:42:33
かんた @0sak1_m1d0r1

さらに絞り込んで言うならば、『ハッピーアワー』における火種を抱えたカップルたちの成り行きは、最終的に、「もう遅い」(変われない)と「まだ途中」(変われる)のせめぎ合いとして表現されるだろう。 (三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』p130,131)

2023-10-13 10:57:47
かんた @0sak1_m1d0r1

本作を見ることは、本作に自分の体重をあずけることにほかならない。そこで「重心」が生まれるとき、「私」の姿勢が問い返されている。 (三浦哲哉『『ハッピーアワー』論p140』)

2023-10-13 11:15:02
かんた @0sak1_m1d0r1

三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』の「『ハッピーアワー』のあとに見たい映画リスト」にカサヴェテス『ラブ・ストリームス』が挙げられていて驚いた。『ハッピーアワー』を見たあと、自分が思い浮かべた映画がまさに『ラブ・ストリームス』だったから。

2023-10-13 11:18:48