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papico_ocipap
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Twitterの微分は何で起こるのかというと、未決の継続をうながし続けている人間が死ぬということに対して人間が忘れ続けているから。厳密に言えば、忘れようとしても忘れられないから。だから現在を微分しながら忙しくしている。Twitterで「時が経つのを忘れる」というのはそういうこと。
2011-12-09 14:46:32![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
要するに、タイムラインでフォロー数を増やして毎秒死ねば、最後には「死ぬなう」とつぶやきながら死ねるかもしれない、というのがTwitterの予感です。すでに「セックスなう」は登場している。あとは「死ぬなう」を待つばかり(笑)。
2011-12-09 14:47:03![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
デカルトの〈主観〉の現前性よりもヘーゲルの〈精神〉の現前性。ヘーゲルの〈精神〉の現前性よりもフッサールの〈現象〉の現前性と、〈現在〉は近代哲学以降、多様に拡張され続けてきたわけですが、Twitterの現前性は、どこに位置付くのか、まだ誰も見定めていません。
2011-12-09 14:50:09![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
今書いているツイートに魅力的でなければ、その人がすごく偉い人であろうと、すごい実績を持っていようと馬鹿は馬鹿だというところで、実在的な過去をつぶすだけの十分な威力を持っているわけ。皆が興奮しているところはそこです。
2011-12-09 14:51:42![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「話せばわかる」というような担保は、人間には元々ない。「タイムライン」は、そういう輩に、ニーチェのように、死を宣告しているのです。「話せばわかる」というのも一つの態度表明だからです。そこだけは、自分の態度の意味作用を抑えるなんてできるわけない。
2011-12-09 14:52:04![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
つまり人間は動物のように時間を担保しながら生きてきて、その結果朽ち果てて死ぬのではなく、死んでいるやつは生きていても死んでいるわけです。「タイムライン」の生成は間断ない生死の象徴だとも言えるし、死の日常化でもある(と、とりあえずは言えます)。
2011-12-09 14:52:54![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
〈終わり〉は、日常の些事によって相対化されたのではなく(「終わりなき日常を生きろ」というように相対化されたわけではなく)、毎日が死だ、現在こそが死だというように日常化されたのです。
2011-12-09 14:53:21![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
動物が生きている理由は彼が生まれたからです。人間は生まれた理由を全否定することができます。いつでも死のうと思えば死ねたのに、なぜ自分は現にこうやって存在しているのかということを自分の現在に問い続けることが出来るのは、人間の生と動物の生が違うからです。
2011-12-09 14:54:00![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ツイートで要求されているのは、自分は現在をどう選択するかということを極限で問われ続けているということであって、動物のような自然時間で過去から将来に向かって時間が延びていて、生まれた始点があって何十年か経つと最後に死ぬというわけではない。この時間構造は動物の生死の構造です。
2011-12-09 14:55:58![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
人間の生死って生まれたときから確実なのは生きることより死ぬことなんだから、いつも選択しなおされ続けているわけです。生きることの影が死ぬことなのではなくて、死ぬことの影が生きることなわけです。生の結果が死なのではなくて、死の結果が生きていることなわけです。
2011-12-09 14:57:21![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
つまり人間の生とは、死の解釈、未来(いまだないもの)の解釈としてしか存在しない。動物は過去の累積(=影響と消耗)としてしか存在しないのですが、人間はいつも影響と消耗からの超越=可能性として存在している。
2011-12-09 14:59:24![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
動物の死は朽ち果てる死に方ですけれども(ドイツ語でablebenと言います)、人間の死はいつでも死のうと思えば死ねたという現在を抱えながら存在しているという意味で、Twitterの現前性の微分というのはそういった緊迫感を隠喩している点ではすごく革命的です。
2011-12-09 14:59:48![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
これはポストモダンの思想家たちが〈主体〉とか〈人間〉というのは、実は幻想なんだと言ったことにかなり近い。Twitterの微分作用はドゥルーズの言葉「平立的多面体」とほとんど同じ。ドゥルーズの言う“意味の反復性”が力動的なのも「タイムライン」そのもの。デリダの「差延」もそう。
2011-12-09 15:01:15![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
身体感覚と並行している私にしかわからない個別性ということについて、身体がどんどん微分していくことによって、様々な観念に分配・接合していくことができるという事態がTwitterで生じています。それは、〈身体〉の心理主義化という事態です。
2011-12-09 15:01:45![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
それは、〈身体〉の心理主義化という事態です。心理主義的な身体の相対化をTwitterはやっているわけです。つまり加速器のように人間を微分記述すれば、人間の身体も相対化できるのではないか。これが、Twitterの予感です。われわれ哲学者は、Twitterの挑戦を受けているわけです。
2011-12-09 15:02:35