悉若無の幻想哲学講義 ヴィトゲンシュタインから幻想郷へ②
- L_O_Nihilum
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つまり、いつもの暮らし、自分たちの生活に戻ればいいのだ。哲学のことを、学んで、そして忘れなきゃいけないのだ。『ハシゴを昇ったら、そのハシゴを取っ払わなきゃいけない』 http://t.co/IQQvrrh2
2011-12-14 00:15:16お墓に眠るウィトゲンシュタインは、その中で、ずっとずっと僕たちに、「さあ、ほんとうの哲学を続けようじゃないか!」とエールをおくっているのだ。そのエールは、いつか捨てられるハシゴなのさ。
2011-12-14 00:16:36で、ここなの。ウィトゲンシュタインを僕は一つ、批判というか、進めてみたい。僕の話は、実はここからです。そう思って、気持ちを考えてみれば、お墓から声が聞こえてくる。この、聞こえてくる声…つまり、想いというのは、言葉?それともそうじゃない何か?
2011-12-14 00:18:33言葉は生活が決めるんだよね。言葉の意味の意味の…・って迷っちゃだめなのよね。ていうか、言葉ってただの記号で、それこそまさに、(ソシュールじゃないが)意味をつけているのは読み手、なんだよね。本来的に、メッセージはそのはしごにも、お墓にも、ない。
2011-12-14 00:19:45これは音楽も同じだ。音が流れてくる。歌詞が在ろうとなかろうと、そこには何かしらメッセージがある。メッセージがない曲も、『無為』という、無のメッセージがある。そうじゃなかったら、「4:33」はありえないし、「泉」もあり得ない。
2011-12-14 00:20:43想いを読み取る力があれば、たとえばウィトゲンシュタインのお墓からは「これがお前が昇り、そして捨てるべきハシゴだぞ、がんばれ」って響く。トイレからは、「俺はトイレだよ!デュシャンの藝術なんかじゃないよう!」って聞こえる。そして、デュシャンの「だからこそここに出したのさ!」って声も。
2011-12-14 00:22:24こういうのをいわゆる「差延」とかなんとか言うのですが、こう立ち現れてくるものはもはや、「行間」でもなんでもない。いや、それこそまさに、ヴィトゲンシュタインやエーコのようなただの「使用」じゃない。使用して、それを超えたところに声が響く。聴こえないこともあるけどね。
2011-12-14 00:23:57その、在りもしない領域に生まれたものは何か?これって、「幻想」じゃないだろうか?…つまり、他人と話すとき。挨拶をするとき。いただきますといって食べるとき。みんなで一緒になって何かするとき。何かに塗れるとき。このとき、在りもしない外側とのコミュニケーションが起っている。
2011-12-14 00:25:08その在りもしないコミュニケーションが、ウィトゲンシュタインの声を、お墓から聞く。お墓はしゃべってもないし、テクストも提示してないのに、だ!!!
2011-12-14 00:26:23…詩人が、「木がこちらを見ている」という。これも同じじゃないか?メルローなんかが言うように、観るものとみられるものの両義性、主客未分化が、その関係を逆転させて感じさせる。しかし、そうさせるのは、「使用」でもなく、「戯れ」(バルト、デリダ他)でもなく、それを超えたものでは?
2011-12-14 00:27:46そ・れ・って・・・「穴」じゃないの?…これが僕の問い。そう、哲学も、「穴」をあけるからこそ、その意味が、気持ちが、想いが、伝わってくる。オモイーガー)ry
2011-12-14 00:28:35あの、「カミの現象学」の「穴」だ。ウィトゲンシュタインの言ってることを理解し、解釈する。脱構築する。こうやって、また理解する。理解した後、ふとハシゴの話を思い出し、お墓を見てみる。そこからは、なんか響いてきて、ゾクゾクってする!!
2011-12-14 00:29:40響きがすごくって、それで「哲学って面白い!!」ってなっちゃう。お墓に、声がこびりついてて、それが無限にこっちにやってくる。なんか、迫力がある。お墓見てるだけなのに、ウィトゲンシュタインとお話ができる。僕の哲学なココロに、「穴」が開く。
2011-12-14 00:31:06それも、このお墓を見終わったら「穴」は閉じる。儚く、蠱惑的な場。…うぉぉぉおおお?!それってまさに穴じゃないの?!ここでいえば・・・あ、そうだ、ハシゴ。ハシゴにはウィトの思想が、「うつさ」れている。あれはまっぴら、「穴」じゃないか!!
2011-12-14 00:32:16「穴」による身体の強度ある交通。この対話が起って、初めて感動はおこる。この穴が起こすパワーって、これこそが、まさに「幻想」ではなかったか。つまりだ。そういう者たちにとっては、まさに「幻想」=「行間」=「穴」なのだ。スキマ…ゆかりんがまた好きになってきました。
2011-12-14 00:33:37(いや、別にテクストでもいいのか。文章からでも穴が開くことはある。小説を読むと、そのときに感じるものに穴が開く。「魔性の子」読んだときはクソやばかった!あれは穴だ!!そして、あとはあずまんのあの本も…)
2011-12-14 00:35:00まて、ウィトゲンシュタイン、言語がゲームならば⇒ウィト「みてくれ。純文学者は「行間を読め」と言うが、行間には何も書いてないだろう」→「文学とは、それ(言葉)を使う事である」…でも、行間からくるもの。行間(文章と文章のスキマ)。「穴」だ。
2011-12-14 00:36:47純文学者は、「穴」をあけて読め!!って言ってたんだね!!てことは「穴」あけはぜんぶロマン主義者じゃないか!幻想主義じゃないかww!
2011-12-14 00:37:31行間からは、何も得られない。得ようとしなければ(穴をあけなければ)なにも伝わってこない。でも、ここに伝わるものがあるが、これが幻想である、と。では、この「幻想(行間)」は幻想郷そのものか?違う。つまり【「幻想の郷」(うそ)】
2011-12-14 00:38:57「幻想郷」それ自体が、すでにフェイク。幻想郷(うそ)…偽楽園。Psuedo Paradise。蓬莱人形ですねコレ。つまり、あれは文章の行間の向こう側の話。
2011-12-14 00:39:42このことは魔理沙にこれを言わせれば分かる。「現実問題私はこれをしたほうがいいな」…このときの「現実問題」は、幻想郷でのこと。こちらのことではない。で、この現実問題と言うのがなんなのか、僕らは「幻想しないと」(≒「穴」をあけないと)わからん。
2011-12-14 00:40:50が、「穴」からは幻想しかできない(幻想=行間)。ということは、これは観測ではない(香霖堂から…って、数学みたいだw)。
2011-12-14 00:41:37ところで、幻想郷はどうやってできているのか?①幻と実体の境界②博麗大結界(常識と非常識の反転結界)。つまり、僕らが常識するたんびに、その逆として存在し、それが「幻」であると思われるたびに、それは”向こうに於いて実在”する。
2011-12-14 00:43:20これを表現したもの⇒【「妖怪?いまどき非常識な。」 しかし、僕は知っている。妖怪達は、人間にそう思わせとけば平和に暮らせるという事を。 妖怪は人間よりずっと平和で現実的だという事を。】こちらが非常識を空想する度に実在するから、彼らはその中で暮らしている。
2011-12-14 00:45:42妖怪は賢かった。その代表者が紫たち。彼らが、幻想郷を構築しました。それも、概念による論理的な結界で。そして、それは「日本と陸続きなのに」日本から入ってこれません。幻想のみ。これどういうメカニズム?
2011-12-14 00:46:56