ゼロの哲学者の奔走2 無学な少年の幻想旅行
- L_O_Nihilum
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梅木賢一郎「穴」 デリダ「差延」 純文学者「行間」 ZUN「境界」「幻想」 そういえば、「魔性の子」(小野不由美)の最後のシーンで、連想法を使って「高里」の本来を言い当てる広瀬が描かれている。高里のテクストからその行間(スキマ、幻想)を埋める。
2011-12-15 21:12:16行間がひけらかす伝えてくる変わらないもの、というのは、いくら差延が働いても差延とならない。ただし、それはテクストのパターン変化(デリダやバルトでいえばテクストの快楽、戯れがこれにあたる)のせいで毎回ズレる。
2011-12-15 21:14:13いくらズレても、込められた原作の想いは変わらない。子の変わらない部分こそ「行間」だったのなら。それこそまさに「文学の幻想」であり、ロマン主義の極致。
2011-12-15 21:15:22いったん風呂入ってくる 言っておくけど、ああいう「反社会的」だったからこそ、ゲームは自由だったんでしょ?ゲームが社会に認められやすいものを求めたときに低迷した、ってZUN言ってるよね?それと「穴」てどういう関係だった? そこに、彼ら創作者の思想の根っこってあるんじゃない?
2011-12-15 21:41:58「穴開け」の技法は、決して社会が商品化すべきではない。均される身体性に、「穴」は開かない。それがわかっているんだったら、基盤をさがしなおすべきだ。
2011-12-15 21:44:23ヨーロッパの映画にせよなんにせよ、あれだけ個性が開けるのは昔、基盤がしっかりあったから。しかしアメリカの映画なんかは商業のために、均一化したよね?日本はどっちだった? 東浩紀「戦後アメリカの資本主義とポストモダニズムが入ってきたからアメリカ型だよ」
2011-12-15 22:31:23で、東浩紀先生の戦い方、というのは、そういうポストモダニズム化・動物化した日本文化から、「オタク文化」が切り離されている現状、とみて、そこで、「オタク文化のことちゃーんと評論できてないけど、オタク文化だって”同じ”なんだぜ」って(彼自身オタ代表を名乗り)アピールすることだった。
2011-12-15 22:33:02しかし、それは結局日本文化の没個性化…よく言うJpopに言われる「象徴・記号の大量消費」の中に、オタク文化を巻き込むことに他ならない。そういうことに、たぶん東先生も無自覚だったと思う。「オタク学入門」を「虚構」と言い出すあたり、そんな彼の弱みが見える。
2011-12-15 22:39:16「○○のゲームは…」←大きな物語ですね。では、この大きな物語すらテレビゲーム業界から消えて、データベース動物的消費、になったのはいつから?
2011-12-15 22:49:06「穴」が境界なんでしょう?だったら、それを空ける蠱惑性をどこで保つか?なんだよね?それを東方から見出すなら、私ならどちらが一般解?そんなの、きまっているじゃない。
2011-12-15 22:50:57なんかソラ様とぼくの会話ってあれみたいだ 哲学でのガダマーとデリダの論争。ガダマーもデリダも同じことを目指しているし言っているのに、デリダがはぐらかすからガダマーは腹を立てる。そんな感じ。僕に足りないもの。何だろう。
2011-12-15 22:58:50画一化に向かう⇒流行⇒さらに画一化⇒消費⇒立場ないのでアンチと信者がともに増加(作り手の企業側はそれで売れてるから無自覚のまま)⇒議論・認め合いできず⇒画一化に向かう⇒以下ループ
2011-12-15 23:04:06西洋哲学ではそんななかでも感性や藝術になにかしら本質的なものがあると思っていたから、美学や芸術学があり、なおかつそのそれぞれの美学に「立場」・・立脚点がある。しかし、今の文化にはないんだよね。それはみんな指摘してた、と。
2011-12-15 23:05:39で、東浩紀はそんな「立脚点の無い組み合わせ消費の文化」にオタク的文化、を混ぜ込んでしまった。ある意味、これは罪だともいえる。
2011-12-15 23:09:21「属性」に萌えるのは分かったよ。でも、なんで属性に「萌え」るの?そのデータベースだから?そのデータベースが育った理由は?無視?それじゃあオタ語ったことになってるの?っていうのが今のところの僕の印象。
2011-12-15 23:10:26閑話休題、この前秋葉原のフィギュア店3階のドールのフロアに行きました。そして、ドルフィーに携わる人たちをながめていて気づいたこと一つ。各ユーザーの買ったドルフィーには、ドルフィーネーム(DN)、つまり自分のドール固有の名前がある。
2011-12-15 23:15:59で、そのDNなんだけど、例えば「翠星石」のような”もともとのキャラクターのあるドルフィー”を扱っていても、DNは別に存在する。「そのキャラのコスプレしたドルフィー」のような、そういう認識がある。多分、「お迎え」のシステムが大きくかかわってると思う。
2011-12-15 23:17:52そうそうゲームの多様化(という名の画一化)が起る理由の一つは、そういう暇の時間の減少にもあると思う。作り手も受けても同じく。…・うーん、「動ポモ」もそうだけど奇妙だなぁ、文化について語るとき、作り手と受け手がつねに同じ状態になっている…何故だ?
2011-12-15 23:19:58”リアルのゆくえ”の大塚と東 大塚「ねぇ君の話って享受者の話なの提供者の話なの」 東「…。」 大塚先生、ある意味で聴いても無駄なこと聞いているのかも。だって奇妙に合致するから。
2011-12-15 23:21:04だから、嫌な人をどんどんブロックしてしまう人なんて…って言えないのが、心なしかデリダの悩み…wだって、その地点で二項対立じゃないか。しかも、その二項対立のもう一方なしには、今僕が「いいなぁ」という事すらできない。
2011-12-15 23:52:04「こういう人(もの)はいい」って言う地点で、ある種の暴力になるわけなのよね。「じゃあ黙ればいいジャン」…・黙ってもダメ。黙ることとしゃべることの二項対立だ。
2011-12-15 23:52:46そういう「つねに二項対立をはらむ」ことを覚悟して、それに惑わされるな、っていう言語ゲームの延長線が、デリダなんだよね。たぶん。でもムラ社会的な日本人の在り方見てて、だいたいデリダが抱くような疑問なんか起こるのか?この、方言めっちゃたくさんな日本と言う国…いや土地で。
2011-12-15 23:54:36生活に根差した言葉こそ、本当の言葉だ。このことはウィトゲンシュタインが何度も言った。日本の言葉は、だいたい科学が発達しないこともあってか、そもそもウィトゲンシュタイン的(?!)だった。つねに、生活に根差した言語だった。
2011-12-15 23:55:31…などと思ってみると、ふと考える。あれ、もしやラカンみたいなのが「言語界、象徴界、現実界」ってわざわざ分けるような事態になっちゃった西洋の人たちの研究感覚って、もうその地点で言語が生活から乖離している空間が自然化したソレ、ってことなんだろうか?
2011-12-15 23:56:58だって言葉が生活に根差した状態であればラカンみたいなことには気づかないし、ラカンのような研究が必要だとも思わない。それこそデリダで、「言語界Vsそうじゃない世界」っていう分け方があるから、ああなるわけだ。
2011-12-15 23:58:20