戸田先生の獄中体験と、法華経に現れる二重構造、文上と文底その一

法華経を文上と文底で読むことの違いについて説明していきます。そして、日蓮大聖人の本意は法華経を文底から読むことにあります。
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komekome39 @komesandazo

spi2002.web.fc2.com/sidout3.htm 戸田先生の獄中体験に関して呟いてみる。これは非常に重要な内容となる。まずは引用する。 「彼は自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。数かぎりない、六万恒河沙の大衆の中にあって、金色燦然たる大御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである(略) 続

2023-12-30 23:10:35
komekome39 @komesandazo

此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり。 彼は狂喜した。彼はこれまで、日蓮大聖人の三大秘法稟承事を拝読するごとに、いつもこの「口決相承」とは何か、と頭を悩ませてきた。だがここに、なにも不思議でないことを、ついに知ったのである

2024-01-03 22:50:20
komekome39 @komesandazo

あの六万恒河沙の中の大衆の一人は、この私であった。まさしく上首は、日蓮大聖人であったはずだ。なんという荘厳にして、鮮明な、久遠の儀式であったことか」 ここで問題となるのは、法華経の文上では、この虚空会の儀式と言うのは、師匠の釈尊から弟子の上行菩薩(大聖人)への口決相承の筈だ。 続

2023-12-30 23:14:32
komekome39 @komesandazo

「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」 これは有名な三大秘法稟承事の一説だが、かくして釈尊から大聖人の口決相承は神力品にて完了し、属累品にて虚空会の儀式は終了し、多宝仏は宝塔を閉じて地中に戻ってしまっているはずだ。 続

2023-12-30 23:21:18
komekome39 @komesandazo

ところが先ほどの戸田先生の獄中の体験記では次のような一節がある。 『彼は涙のなかで、「霊山一会、儼然未散」という言葉を、ありありと身で読んだのである』 。 既に釈尊から大聖人へと口決相承が完了し、全てが終わった筈の霊山での儀式がなぜ未だに続いているのか? 続

2023-12-30 23:26:17
komekome39 @komesandazo

そして、最重要とも言える戸田先生の獄中体験の疑問点はこれ。 「まさしく上首は、日蓮大聖人であったはずだ」 釈尊から大聖人へと妙法蓮華経の五文字が手渡されたのだから、中心となる仏は釈尊でなければならない。それなのに、なぜ大聖人がこの儀式の中心者になっているのか?

2023-12-30 23:30:07
komekome39 @komesandazo

この答えは開目抄のこの御文にある。 「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」 又曰く「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅」草木成仏口決 即ち、法華経の文上だけを読んだのでは、御本尊とは何かという問いには決して答えることができないということだ。 続

2023-12-30 23:40:15
komekome39 @komesandazo

この答えは、池田先生の御義口伝講義下p258に見つけることができる。極めて重要なので、全文を引用するためにスクショしておく。 pic.twitter.com/ZwskNf2Tca

2023-12-30 23:48:31
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komekome39 @komesandazo

池田先生は霊鷲山での釈尊から大聖人への口決相承に関して、御義口伝講義下でこのように講義している。スクショした箇所だが大事なので引用しよう。 「観心の辺、文底の辺より論ずれば、全く久遠元初の儀式であり、釈尊より口決相承したという、この釈尊は、久遠元初自受用身如来であらせられる。 続

2023-12-31 22:35:09
komekome39 @komesandazo

上行菩薩として付属を受けたのは、生命論からいえば、上行とは我をあらわし、三世常住に続きゆく生命の本質に、久遠元初自受用身如来の生命を受け継がれたと拝すべきか。」 (御義口伝講義下p258) さてそれでは、自受用身如来とは一体何者で、どこに存在しているのか?

2023-12-31 22:42:18
komekome39 @komesandazo

答えはただ一つ。「大宇宙の本源、生命の本源(略)即南無妙法蓮華経」(御義口伝講義下p246) となる。即ち、「大宇宙それ自体の生命」(御義口伝講義下p247) から口決相承を受け、自受用身如来それ自体となられたと捉えるべきであるというのが、戸田先生の、そして池田先生の御書解釈だ。 続

2023-12-31 22:50:25
komekome39 @komesandazo

「釈尊が悟った「永遠の法」即「永遠の仏」は、あらゆる仏が悟った「永遠の大生命」であった。過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとく釈尊と同じく「久遠元初の仏」を師として悟ったのです。それが久遠元初の自受用身であり、南無妙法蓮華経如来です」(法華経の智慧4巻p57) 意味は明白だろう

2023-12-31 23:03:40
komekome39 @komesandazo

さらに重要な点として、今までに述べてきた戸田・池田先生の御本尊に関する解釈は、百六箇抄等の真筆の残らない御書、及び単なる宗門の神話に基づいた話では決してないということだ。どの御書にこうした見解が述べられているかというと、観心本尊抄だ。

2023-12-31 23:12:59
komekome39 @komesandazo

twitter.com/komesandazo/st… この御書の重要性は、寿量品を文底から解釈したものであるということが言えるなぜそのようなことが言えるのか? 一念三千の法門に関して言及しており、大曼荼羅(御本尊)に関して言及しているからだ

2023-12-31 23:19:15
komekome39 @komesandazo

釈迦・多宝・十方の諸仏は我(日蓮)が仏界なり(略)我等(日蓮とその弟子)が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり」「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず

2023-12-31 23:24:59
komekome39 @komesandazo

所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり」(観心本尊抄)

2023-12-31 23:26:50
komekome39 @komesandazo

ここで先ほどの池田先生の御義口伝講義と観心本尊抄を対応させてみよう。 「上行とは我をあらわし」とは「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり」であり、久遠元初自受用身如来の生命を受け継がれた」とは「釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界」又は「我等が己心の釈尊」と言える。 続

2023-12-31 23:33:43
komekome39 @komesandazo

それでは宇宙の大生命はどうなのか?「百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る」がそれに当たる。即ち、宇宙全体が一念三千の当体であると拝するべきなのだ。 従って、戸田・池田先生は決して自分勝手な己義を述べた訳ではないし、宗門の神話に従って御書解説をした訳でもないと言えるな。

2023-12-31 23:39:29
komekome39 @komesandazo

以上のことを踏まえて、次の青春対話p404を読めば、その深い意味が分かりやすくなると思う。 「宇宙」も、その本体は南無妙法蓮華経です。「わが生命」も南無妙法蓮華経の顕れです。そして「御本尊」も南無妙法蓮華経の御当体です。三者とも南無妙法蓮華経であり、本来、一体なのです。   続

2023-12-31 23:50:37
komekome39 @komesandazo

ゆえに南無妙法蓮華経と唱えゆく時、御本尊を中心にして、わが生命と宇宙が、きちっとギアをかみ合わせ、幸福の方向へ、幸福の方向へと回転を始めるのです」 戸田先生は御本尊を幸福製造機に喩えていたが、その原理がこれだ。目に見えない神みたいなものがいて助けてくれるというものでは決してない。

2023-12-31 23:52:52
komekome39 @komesandazo

それでは戸田先生の獄中体験で見たもの。即ち、「霊山一会、儼然未散」「まさしく上首は、日蓮大聖人であったはずだ」と、日々の勤行・唱題の関係はどうなるのか? これも答えは観心本尊抄にある。 「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」

2023-12-31 23:58:49
komekome39 @komesandazo

即ち、文底から読むならば、五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏である釈尊(大聖人)から、我等が己心の上行菩薩(ようするに学会員)への口決相承の儀式ということができ、御本尊の前にて勤行・唱題することそのものであり、末法万年、即ち「霊山一会、儼然未散」であるということができるだろう

2024-01-01 00:07:08
komekome39 @komesandazo

従って、「四大菩薩の此の人を守護し給わんこと」とは、大聖人の教えを受け継ぎ、それを広める日蓮門下こそが四大菩薩であると言えるだろう。仮にこれを文上から読んで、此の人(釈尊)を守護する日蓮等の四大菩薩と読むならば、大聖人の真意を誤って理解する謗法者となる。

2024-01-01 00:14:51
komekome39 @komesandazo

この件に関して池田先生は次のように述べられている。 「これほどまでに日蓮大聖人は、末法の衆生の信仰すべき御本尊を説き明かされているのに、身延派日蓮宗等では、今なお釈尊を本尊としている。まさに仏の金言を踏みにじる姿であり、不知恵の畜生というべきである」(御義口伝講義下p259)

2024-01-01 00:18:11
komekome39 @komesandazo

次は法華経の文の底とはなんぞやというテーマを続けて呟く予定だが、その前に、戸田先生の獄中体験等に関する非常に重要な問題点がいくつかあるので、それを呟いておく。 まずは、法華講や宿坊の掲示板の連中が、戸田先生が獄中体験で見た大御本尊とは戒壇本尊だという主張があるので、これを破折する

2024-01-01 11:47:26