戸田先生の獄中体験と、法華経に現れる二重構造、文上と文底その一

法華経を文上と文底で読むことの違いについて説明していきます。そして、日蓮大聖人の本意は法華経を文底から読むことにあります。
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komekome39 @komesandazo

人間革命一巻の初版p38に次のような記述がある。 「彼(戸田)はシキミを口にくわえ、常住御本尊をそろそろと外した(略)確かにこのとおりだ。間違いない(略)(彼は)獄中で体得した、不可思議な虚空会の儀式が、そのままの姿で御本尊に厳然として認められていることを知った」 続く

2024-01-01 11:51:22
komekome39 @komesandazo

この常住御本尊と戒壇本尊とでは相貌が異なる。有供養者福過十号及び若悩乱者頭破七分が戒壇本尊にはないし、戒壇本尊では仏滅後二千二百二十余年なのに対し、常住御本尊は仏滅度後二千二百三十余年である。又、諸天全神の配座も異なる。従って、戸田先生が見た大御本尊を戒壇本尊と特定することは誤り

2024-01-01 12:06:57
komekome39 @komesandazo

次の疑問点。「地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」と三大秘法禀承事にあるが、大聖人はご自身の己心の中で、いつ教主大覚世尊より妙法を口決相承されたのか? これには二つの説が考えられる。一つは虚空蔵菩薩の前にて。もう一つは竜の口の法難の際だ。 続く

2024-01-01 12:13:11
komekome39 @komesandazo

真筆が残されている清澄寺大衆中に次のような一説がある。 「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」 続く

2024-01-01 14:33:59
komekome39 @komesandazo

当時大聖人は17歳、この時に法華経の全てを悟ったとみて間違いないだろう。それでは虚空蔵菩薩とは一体何者なのかというと、諸天全神の大明星天王の別名だ。当然ながらその実態というものはどこにも存在しない。鬼子母神等と同様に、土着信仰から生まれた架空の神の一つに過ぎない。 続く

2024-01-01 14:41:13
komekome39 @komesandazo

仏教は一見は多神教のように見えるが、その本質は全くの無神論であり、又汎神論である。諸天全神というものは、一念三千の生命の法理を擬人化した存在でしかない。それではその架空の神から法華経の全てを悟ったというのはどういうことなのか?戸田先生は虚空蔵菩薩に関して次のように論じている。 続

2024-01-01 14:45:57
komekome39 @komesandazo

「虚空蔵というのは大宇宙のことをいっている。大宇宙の生命それ自体から、南無妙法蓮華経を証得したと言われているのです」(戸田城聖全集七巻 p482 清澄寺大衆中講義)

2024-01-01 14:51:12
komekome39 @komesandazo

もう一度池田先生の青春対話の講義をここで引用してみよう。 twitter.com/komesandazo/st… この大聖人の少年時代の悟りというものは、仲介役とも言える御本尊を抜かして、宇宙の大生命体それ自体から直接仏界というものを取り込んで、それで悟りを開いたということが言えるだろう。 続く

2024-01-01 14:54:47
komekome39 @komesandazo

以上のことを踏まえて、次の青春対話p404を読めば、その深い意味が分かりやすくなると思う。 「宇宙」も、その本体は南無妙法蓮華経です。「わが生命」も南無妙法蓮華経の顕れです。そして「御本尊」も南無妙法蓮華経の御当体です。三者とも南無妙法蓮華経であり、本来、一体なのです。   続

2023-12-31 23:50:37
komekome39 @komesandazo

それならば当然次のような疑問が湧く。大聖人が虚空蔵菩薩という架空の存在に祈ることで、仏界と感応して悟りを開いたのであれば、誰でも虚空蔵菩薩、或いはそれに準じる架空の存在に祈ることで、悟りを開くことができるのではないか。 理論上から言うと、実はこれは可能だと思う。しかし現実は不可能

2024-01-01 14:57:47
komekome39 @komesandazo

なぜ不可能と言えるのか?地球上の生命体を観察すればわかることだ。プランクトンやアメーバのような下等生物は豊富に存在するが、知能が高い高等生物ほど、その存在が稀なもになってくるからだ。同様に、十界も、地獄、餓鬼、畜生と いう下等な境界ほど多く存在し、境界が上がるほど、 続く

2024-01-01 15:00:32
komekome39 @komesandazo

その存在は稀なものになってくる。従って、何かの空想の産物に祈りを捧げたところで、それが宇宙生命の仏界に感応することは、宝くじに当たるよりも低い確率となるといえそうだ。その大半はハズレで、地獄、餓鬼、畜生、修羅といった下等な生命境界と我が生命が感応してしまう結果に終わる。 続く

2024-01-01 15:03:01
komekome39 @komesandazo

これが実は謗法の真の正体でもある。宇宙それ自体が、如何なるものであれ、生命と切り離して存在しないため、何か空想の神等に祈りを捧げることで、自分の生命が下等な生命境界に感応し、依正二報の原理により、自分の周りの環境も、戦争、疫病、天災、飢饉等の悲惨なものになると言うことだ。 続

2024-01-01 15:07:02
komekome39 @komesandazo

この原理を理解しないことには、立正安国論を理解したことにはならない。法華経を誹謗したために、目に見えない神様がどこかに行ってしまい、代わりに目に見えない悪鬼が国に取り憑くという説明は、一切衆生が理解する上での一種の方便でしかない。そして、神の悪鬼も全て架空の存在でしかない。

2024-01-01 15:09:46
komekome39 @komesandazo

だからこそ大聖人は、御本尊という大宇宙と我を百発百中で繋ぐための大曼荼羅を顕されたと言うことが言える。池田先生の指導をもう一度引用しておく。 twitter.com/komesandazo/st…

2024-01-01 15:13:43
komekome39 @komesandazo

ゆえに南無妙法蓮華経と唱えゆく時、御本尊を中心にして、わが生命と宇宙が、きちっとギアをかみ合わせ、幸福の方向へ、幸福の方向へと回転を始めるのです」 戸田先生は御本尊を幸福製造機に喩えていたが、その原理がこれだ。目に見えない神みたいなものがいて助けてくれるというものでは決してない。

2023-12-31 23:52:52
komekome39 @komesandazo

話が随分と逸れてしまったが、大聖人はいつ、教主大覚世尊より妙法を口決相承されたのかという答えとして上がるのが、この虚空蔵菩薩に祈りを捧げ、仏界に感応して全てを悟った時だ。この教主大覚世尊というのは、このまとめでも言及したが、 togetter.com/li/2233649?pag… インドの釈尊などではない。 続

2024-01-01 15:20:26
komekome39 @komesandazo

もう一度戸田先生の講義を引用してみる。 「(此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊とは)釈尊の系統では全然ない。これは久遠元初の自受用報身如来とはっきりしています」三大秘法禀承事講義(戸田城聖全集6巻p521) なぜそう断言できるのか?前回のまとめではこの説明は省いていたので、 続

2024-01-01 15:23:52
komekome39 @komesandazo

今度はそれを説明してみる。観心本尊抄を読めば答えは明白。 「教主釈尊は此れより堅固に之を秘す三惑已断の仏なり又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり行の時は梵天左に在り帝釈右に侍べり四衆八部後に聳い金剛前に導びき八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ」 続

2024-01-01 15:26:18
komekome39 @komesandazo

かくして、インドの色相荘厳の釈尊と此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊とは明らかに別人ということが言えるだろう。更にいうならば、日道の三師御伝土代の「久遠実成無作三身、寿命無量阿僧祇劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍成数の本仏」も、インドの色相荘厳の釈尊ではない。

2024-01-01 15:34:29
komekome39 @komesandazo

観心本尊抄に説かれる、三惑已断(三惑の煩悩を全て断じ尽くした)の仏と、大聖人の三大秘法禀承事や日道の三師御伝土代に説かれる、無作三身(ありのままの姿)の仏が同一の仏である道理はない。両者は名前こそ同じ釈尊だが、明らかに別の仏とみなすべきだ。 続

2024-01-02 22:33:58
komekome39 @komesandazo

「無作三身という言葉は大聖人の真筆御書には全くないので、そうした御書は全て偽書だ」と一方で主張しておき、もう一方で、『日道の「久遠実成無作三身(略)今猶未尽復倍成数の本仏」とは明らかにインドの釈尊なので、日興門流の初期は日蓮本仏論はなかった』とする主張は余りにもご都合主義だな。

2024-01-02 22:38:54
komekome39 @komesandazo

かなり本題から逸れてしまったので元に戻そう。文底から読むならば、インドの釈迦ではなく、大宇宙それ自体の生命、即ち自受用身如来から口決相承を受けたと読めるので、この虚空蔵菩薩の前で「日本第一の智者となし給え」と祈った時が、口決相承を受けたその時という第一の説 twitter.com/komesandazo/st…

2024-01-02 22:54:27
komekome39 @komesandazo

しかしこの仮説には大きな問題がある。開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ」とあるためだ。勿論大聖人は実際に首を竜の口で刎ねられたわけではない。この法難に打ち勝たれることで、上行菩薩という法華経の文上の仮の姿から脱却したと読むべきなのだ。 続

2024-01-02 23:12:45
komekome39 @komesandazo

池田先生はこの御文に関して次のように解釈されている。 「(竜の口の法難は)一切衆生を救済せんとして戦い続けてこられた大聖人が、凡夫という「迹」の姿を開いて、その身のままで久遠元初の自受用報身如来、すなわち末法の御本仏の本地を顕された瞬間であった」(新・人間革命26 勇将 p215) 続

2024-01-02 23:16:43
komekome39 @komesandazo

次の疑問はこれ。大聖人が教主釈尊より口決相承された後は、何に対して祈られたのか? 答えは簡単で、南無妙法蓮華経如来。即ち、宇宙生命そのものであり、大曼荼羅と言える。なお、身延派等の連中はインドの釈尊というだろうが、これはありえない。

2024-01-02 23:28:22
komekome39 @komesandazo

togetter.com/li/2255964 「大聖人は釈尊よりも百千万億倍すぐれた御本仏である」(御義口伝講義上 p770) 逆に読めば、釈尊は大聖人よりも百千万億倍劣る仏となる。上行菩薩という仮の姿の時なら、釈迦の仏像が本尊となるだろうが、竜の口の法難以降は南無妙法蓮華経如来を祈りの対象とされた筈だ。 続

2024-01-02 23:38:23