柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』

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かんた @0sak1_m1d0r1

「絵画から文学を見ると、近代文学を特徴づける主観性や自己表現という考えが、世界が「固定的な視点をもつ一人の人間」によって見られたものであるという事態に対応していることがわかる。幾何学的遠近法は、客観のみならず主観をも作り出す装置なのである。」

2024-01-04 14:00:31
かんた @0sak1_m1d0r1

(柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』p23)

2024-01-04 14:01:01
かんた @0sak1_m1d0r1

いいかえれば、周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner manにおいて、はじめて風景が見出される。風景は、むしろ「外」をみない人間によって見出されたのである。 (柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』p28,29)

2024-01-04 17:52:01
かんた @0sak1_m1d0r1

「国木田独歩にとって、内面とは言(声)であり、表現とはその声を外化することであった。このとき、実は「自己表現」という考えがはじめて存在しえたのである。それ以前の文学について、「自己表現」として論ずることはできない。「自己表現」は、言=文という一致によって存在しえたのだ。」

2024-01-05 00:33:53
かんた @0sak1_m1d0r1

(柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』p46)

2024-01-05 00:34:12
かんた @0sak1_m1d0r1

「漢字においては、形象が直接に意味としてある。それは、形象としての顔が直接にあるのと同じだ。しかし、表音主義になると、たとえ漢字をもちいても、それは音声に従属するものでしかない。同様に、「顔」は今や素顔という一種の音声的文字となる。

2024-01-06 20:40:05
かんた @0sak1_m1d0r1

それはそこに写される(表現される)べき内的な音声=意味を存在させる。「言文一致」としての表音主義は「写実」や「内面」の発見と根源的に連関しているのである。」 (柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』p54)

2024-01-06 20:40:41
かんた @0sak1_m1d0r1

「日本の近代文学は、国木田独歩においてはじめて書くことの自在さを獲得したといえる。この自在さは、「内面」や「自己表現」というものの自明性と連関している。私はそれを「言文一致」という文字表現の問題として考えてきた。

2024-01-06 20:41:19
かんた @0sak1_m1d0r1

あらためていえば、内面が内面という存在するということは、自分自身の声を聞くという現前性が確立するということである。」 (柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』p75)

2024-01-06 20:41:58
かんた @0sak1_m1d0r1

文学テクストには、言語的な形式自体がもたらし、けっして何らかの意味に還元されてしまわないような何かがある。ベンヤミンはそれを「純粋言語」diereine Sparache と呼ぶ。 (柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』p96)

2024-01-26 20:04:47
かんた @0sak1_m1d0r1

隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すべきことを、あるいは「内面」を作り出す。そして、そのこと自体がまったく忘れられるのである。 (柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』p113)

2024-01-26 20:05:01
かんた @0sak1_m1d0r1

「私は何も隠していない、ここには「真実」がある……告白とはこのようなものだ。それは、君たちは真実を隠している、私はとるに足らない人間だが、少くとも「真実」を語った、ということを主張している。(略)しかし、ここでいわれている「真実」は有無をいわさぬ権力である。」

2024-01-26 20:05:24
かんた @0sak1_m1d0r1

(柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』p123)

2024-01-26 20:05:31
かんた @0sak1_m1d0r1

実は、「遊びと労働」の分割は、「子供と大人」の分割と深く関連している。 (柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』p178)

2024-01-26 20:14:09
かんた @0sak1_m1d0r1

そこから見ると、逆に明瞭になるのは、近代日本の「義務教育」が、子供を「年齢別」にまとめてしまうことによって、従来の生産関係・諸階級・共同体に具体的に属していた子供を抽象的・均質的なものとして引きぬくことを意味したということである。 (柄谷行人『定本日本近代文学の起源』p194)

2024-01-26 20:14:27