「アイヌ民族は先住民族ではなく13世紀に北海道にやってきた侵略者であり、それまでは和人である擦文文化人が住んでいたんだ」という主張は間違いです。

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高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

1189年には奥州藤原氏が鎌倉幕府によって滅ぼされて、鎌倉幕府の支配が東北にまで及んでいます。 もしも13世紀にアイヌ民族が日本列島の外から北海道に侵略したのであらば、同時に東北にも侵略して占領していなければ、アイヌ語族北海道語派による地名が東北地方にも多くあるのと辻褄が合いません。

2024-03-07 22:33:13
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

しかし鎌倉幕府の支配する東北地方が、13世紀にアイヌ民族により丸ごと奪い取られたという記録は日本側にはないですし、考古学的な証拠もありません。 よって13世紀にアイヌ民族が日本列島の外から北海道に侵略してきたという仮説は成立しないのです。

2024-03-07 22:45:06
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

アイヌ民族の形質は、縄文人よりもオホーツク人に近いはずだという反論があるので検証します。 歯の形には、集団ごとに出現頻度の異なる遺伝性の高い変異があります。その変異を比較すると、確かに樺太アイヌ人はオホーツク人に近いですが、北海道アイヌ人は縄文人に最も近いという結論でした。 pic.twitter.com/nZLZl8ad38

2024-03-07 22:48:28
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アイヌ文化期に鉄鍋・漆器が使われるようになったとしても、擦文土器が消滅するのはおかしいので別の民族だという反論があります。 しかし東北地方でも、奥州藤原氏の時代に鉄鍋が普及していくにつれ土師器の甕が消滅していきます。鉄鍋の普及により土器が使われなくなったのは和人も同じなのです。

2024-03-07 22:51:55
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

擦文文化期に熊送りの儀式があったとしても、アイヌ民族の熊送りとは無関係だから別の民族だという反論があります。 しかし擦文文化期の遺跡で見つかった熊送りは、アイヌ民族の熊送りと儀式のやり方まで同じでした。

2024-03-07 22:55:41
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

アイヌ文化のホプニレという動物儀礼では洞窟や岩陰に送り場が設けられていて、雄なら左頭頂骨、雌なら右頭頂骨に穴を開けるウンメムケという儀式を行います。 羅臼町オタフク岩洞窟遺跡からは擦文土器と共にヒグマの頭骨群が出土していますが、雌雄1体ずつの頭頂骨に同様の穴が開けられていました

2024-03-07 22:58:40
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

擦文人とアイヌ民族の生活は、統計的にはどれほど違っていたのでしょうか。 擦文文化期の遺跡と、中世アイヌ文化期の遺跡における木製品の出土量の分類別の比率を比べてみました。 その結果、擦文文化期と中世アイヌ文化期は、生活の基本を成す木製道具の比率がほぼ同じだったことがわかりました。 pic.twitter.com/zurc6Tz16h

2024-03-08 03:49:25
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高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

上幌内モイ遺跡の擦文文化期の層からは、下顎骨を伴わない角のついた鹿のオスの頭蓋骨が集められている場所が発見されました。 アイヌ文化期の層からも、鹿の頭蓋骨を意図的に集めて「送り儀礼」が行われていたと考えられている獣骨の集中した場所が見つかっています。 pic.twitter.com/zfVxyhgV8q

2024-03-08 04:56:49
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高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

アイヌ民族が土器を作らなかったのは、土器を作れないからなので擦文人とは別の民族だという反論がありますが、アイヌ文化期にも土器はあります。 アイヌ文化には死んだ人間があの世でも家に住めるように、家を燃やす「家送り」という風習がありました。擦文時代の住居も焼失している例が多いです。 pic.twitter.com/9FELMcc4Ii

2024-03-08 05:22:19
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参考文献 藤井誠二(2008)『木製品 : その分類基準と北海道における変遷の特徴 google.com/url?sa=t&sourc… 稲垣克彦『DNA解析と「アイヌ民族否定論」:―歴史修正主義者による先住民族史への干渉』google.com/url?sa=t&sourc…

2024-03-08 05:29:08
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

ずんだもんと学ぶDNA人類学の研究史-特に日本人とアイヌ人の起源について note.com/toy_nupuri/n/n… ずんだもんと学ぶ擦文時代-最新研究で明らかになった古代アイヌ文化期の実態 note.com/toy_nupuri/n/n… いわゆる「アイヌ民族渡来説」について note.com/toy_nupuri/n/n…

2024-03-08 05:33:26
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

上幌内モイ遺跡(3) sitereports.nabunken.go.jp/en/37166 北見市「ところ遺跡の館展示案内:アイヌ文化」 city.kitami.lg.jp/administration… 国連広報センター「先住民族」 unic.or.jp/activities/hum… 先住民族1の権利に関する国際連合宣言(仮訳) google.com/url?sa=t&sourc…

2024-03-08 05:37:51
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

明治政府が蝦夷地を日本の領土に組み込む前から、アイヌ民族は松前藩に支配されていたので、アイヌ民族は先住民族ではないという反論があります。 しかし幕府による黒印状では、松前藩はアイヌとの独占交易権しか認められていません。家康黒印状の「夷」は「清人」だという主張は間違いです。 pic.twitter.com/awjurojymf

2024-03-08 09:24:01
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アイヌ文化だとされてるものは本当は捏造である。たとえば史実としてはアイヌの着物は無地なのに、柄物の服がアイヌ文化とされているという反論があります。 しかし制作時期が16世紀後半~17世紀前半だと考えられているアイヌの服は柄物です。 sankei.com/photo/story/ne… pic.twitter.com/JsIp0dXFuB

2024-03-08 10:56:11
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また1620年に松前に1ヶ月滞在したディオゴ・カルワァーリュの記録では既に衣服に様々な刺繍があることが記録されています。 最初にアイヌ絵を手掛けた小玉貞良(1688頃-不明)の「アイヌ釣魚之図」は18世紀前半の作のようです。これにも文様入りの男女が描かれています。 yuagariart.com/uag/hokkaido03/ pic.twitter.com/vyNgVG0qVe

2024-03-08 11:18:14
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1859年出版の『蝦夷漫画』でも男女共に文様入りの服を着ています。 江戸時代のアイヌ絵を根拠に、アイヌの服には文様が無かったとする主張もありますが、そういう絵の中には下絵段階だったり文様を省略しているものが多いのです。 pic.twitter.com/f9HLkAGwKz

2024-03-08 11:18:53
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アイヌ民族の服にも無地はあります。しかし、アイヌでは江戸時代後期から昭和時代まで一貫して「文様入り樹皮衣」が礼服として最上のものだと考えられてきました。 実際、古い時代の写真を確かめてみても、文様入りの服を着たアイヌ民族の方々が写っています。 pic.twitter.com/Rj5E00MM1O

2024-03-08 11:26:38
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アイヌ民族には、擦文人と違ってオホーツク人の遺伝子が混ざってるから別の民族だという反論があります。 しかし北海道の縄文人・続縄文人のmtDNAを調べた結果、N9bとG1というシベリア先住民のみに見られる遺伝子と、D10というシベリアから移住したアメリカ先住民に多い遺伝子が見つかりました。

2024-03-09 00:07:59
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

元々はシベリアに住んでいたと考えられているオホーツク人との混血が始まる前から、そもそも北海道の縄文人・続縄文人はシベリア先住民との混血だったのです。 またオホーツク人が北海道に渡来してきて擦文人との混血が進んだ後も、擦文土器を使う文化は続きました。鉄鍋、漆器が普及するまでは。 pic.twitter.com/WnTgaRgniB

2024-03-09 00:14:30
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高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

参考文献 五関美里「アイヌ衣服およびその文様に関する地域的比較研究-近世以降の北海道における樹皮衣・木綿衣を中心に-」 swu.repo.nii.ac.jp/record/6746/fi… 津田命子「アイヌ衣文化の研究」 google.com/url?sa=t&sourc…

2024-03-09 00:18:35
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

アイヌ絵の先駆者・小玉貞良 yuagariart.com/uag/hokkaido03/ 産経新聞「世界最古級アイヌ民族服か 釧路市立博物館が所蔵」 sankei.com/photo/story/ne… 松村博文「縄文人とオホーツク人:発掘された遺伝子」 sapmed.ac.jp/medm/7-39.html 伊達市噴火湾文化研究所「北海道の歴史」 city.date.hokkaido.jp/funkawan/detai…

2024-03-09 00:19:10
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

北海道の縄文人・続縄文人はシベリア先住民との混血だったという話には、考古学的な証拠もあります。 北海道で最古の遺跡は、十勝平野にある若葉の森遺跡です。ここでは1万点近い石器が、3万年前頃の地層から発掘されました。この年代値は本州・九州の3万8千〜3万5千年前と比べると新しいものです。

2024-03-10 05:01:39
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

この北海道で、突如として細石刃文化と呼ばれている文化が2万5千年頃に出現しました。 細石刃とは文字通り石刃のミニチュア版で、幅が5ミリメートル、長さ数センチメートル程度の大きさだが、ガラス質の黒曜石のような割れ口の鋭い石から作られます。

2024-03-10 05:03:15
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

その使い方は巧妙で、植刃器と呼ばれるヘラ状の角製品を用意し、その縁に彫り込んだ溝に細石刃をいくつも埋め込んで使います。 そうすると、軸が角なので折れにくく、刃は黒曜石なので切れ味が良いという2つの特性を備えた、狩猟用の槍先ができるのです。

2024-03-10 05:03:48
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

同じ形の槍先は石で作ることもできます。 しかし細石刃を使った植刃器には、衝撃で折れにくく、刃こぼれしたら簡単に交換でき、貴重な石材を大量に使うことなく、移動する時は少量の石材を携帯するだけでどこでも槍先が作れる、といった様々な利点があります。

2024-03-10 05:04:37
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