『機動戦士ガンダム』感想

私的メモ
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分かりあえぬ者たちの共振

河樹 彬 @e_rewhon

最初のガンダムは「障碍なく理解しあう」ことを人間(社会)の理想像として提示し、アムロ・シャアの二人をその魁として描きながら、その二人の諍い(分かりあえなさ)のうちに幕を閉じた。NTは超人でない。人は容易く手を繋げない。これは失望すべき結論だろうか。↓

2024-03-31 15:59:55
河樹 彬 @e_rewhon

私はそうは思わない。人間的な欲望(他者の欲望)に駆られるシャアと、動物的な欲望(自己保存の欲望)に素直なアムロ。二人の諍いは人間の本質に根ざしているからだ。富野由悠季は希望に溢れる「人の革新」を何度も描こうとしながらも、それを描けなかった。↓

2024-03-31 16:40:46
河樹 彬 @e_rewhon

終には、両者の諍いは《世界に人の心の光を見せる》ことに繋がってゆく。両者が和解する訳でも、雌雄を決する訳でもない。私はこの結論が好きだ。二人が分かりあえぬまま道を違える1stは「はじまり」の物語として完璧であり、ここから逆算して最終10話を見返すと、無駄のない構成に溜息がでる。↓

2024-03-31 16:40:46

光る宇宙:他者の欲望

河樹 彬 @e_rewhon

二人の確執を決定付けたのはララァとの「三角関係」だが、ララァ-シャアの恋愛が人間的(プラトニック)なのに対し、ララァとアムロの交感が徹頭徹尾 性的(動物的)なものに寄せて描かれているのは、興味深い。↓

2024-03-31 17:16:40
第41話 光る宇宙

富野喜幸,株式会社サンライズ

河樹 彬 @e_rewhon

近代的恋愛は三角関係と切り離せない。アムロとララァの《戯れ事》を制止した瞬間は、シャアにとってララァが《手放すわけにはいかん》聖母の位置を占めることになった瞬間であり、アムロが打倒すべきライバルとして運命づけられた瞬間だった。↓

2024-03-31 17:16:40
河樹 彬 @e_rewhon

シャアはこのとき未だNTとして覚醒していない。アムロとララァが見ているものは彼には見えない(たとえばシャアは、ララァがアムロの中に「優しさ」を見たと誤解する。それは「彼自身が彼女に与えられなかったもの」の投影にすぎぬ。視聴者はそれが誤解だと知っているが、彼はそれを知りえない)。↓

2024-03-31 17:52:03
河樹 彬 @e_rewhon

彼はその場に辿り着けなかった。これが事態を決定づける。《対象に至る道を妨げるような外的な障害物は、まさに、それさえなければ対象にまっすぐたどりつけるという幻想を生み出すためにそこにある。この障害物は、そもそも対象には到達不可能なのだという事実を隠している》とジジェクはいう。↓

2024-03-31 17:52:04
快楽の転移

ジジェク,スラヴォイ,Slavoj Zizek,俊輔, 松浦,明恵, 小野木

河樹 彬 @e_rewhon

彼がNTの理想(NTへの覚醒で人類は変わる!)に憑かれ、打倒アムロ(貴様さえいなければ!)に憑かれ、女性に優しさを示そうと躍起になるのも、それらがあの場所への途上にあった「障害物」だからだ。勿論、人類がNTに覚醒しようが、アムロが屈服しようが、何人の女を口説こうが、彼は救われない。↓

2024-03-31 17:52:04

光る宇宙:コナトゥス

河樹 彬 @e_rewhon

私達はNTにそこまでの希望は抱けない。NTとは何か。小説版ガンダムは、それを《認識力》の拡大だと言い、《人が見る究極の思惟の完成、誤謬なき人同士の共感》に至ると言う。いいかえれば、それは情報通信系の革新にすぎない。'79年放映当時に比べれば、我々はすでに飛躍的なまでにNT化を進めた。↓

2024-03-31 19:17:03
河樹 彬 @e_rewhon

本作のNTをこの流れの突端にいる「思惟(言葉)を生のままに送受信できる人たち」だと考えるなら、アムロとララァの思惟の交錯が性的(生殖的)な隠喩で描かれるのは理に適っている。障碍なく思惟が接続されるマトリクス。個々の思惟は合一・分割をくり返し、別の思惟(子供)を作る。↓

2024-03-31 19:17:04
河樹 彬 @e_rewhon

思惟の交錯が身体(延長)にフィードバックされる点も含めて、アムロ-ララァの見る「誤謬なき」世界は非常にスピノザ的だ。ただコナトゥスだけがある。これは「理想=誤謬」によって育まれたシャアの世界、生きられた精神現象学(ヘーゲル)の世界とは好対照だ。↓

2024-03-31 19:17:04
精神現象学上 (平凡社ライブラリー)

G.W.F.ヘーゲル,樫山 欽四郎

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