- asijaga2nd
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例を上げると私のご先祖様足利義兼は、頼朝公とは母方の従兄弟にあたり、また妻は北条政子の妹というポジションにある源氏一族の門葉(親族・一族ってこと)の筆頭格でした、が、それでも七位程度の官位の地下人でした…。か、官位持ってるだけでも、鎌倉的にはセレブだもん!
鎌倉時代の足利氏は、北条氏の他では最大クラスの力を持った御家人でしたが、それでも得宗より下の従五位下程度が限界でした。
基本的に鎌倉御家人は「鎌倉殿」の家来であり、朝廷の家来ではないという考えが、その根底にはあります。朝廷から無断で官位をもらうことは鎌倉殿への反逆であったという話しはあの九郎判官義経の腰越状の逸話で、有名じゃないかなあ。
北畠親房卿などはこれを強く非難していますが、そもそも恩賞に出来る土地を朝廷が実質的に保持していないのですから、仕方が無いのです。
2012-01-09 13:31:15官位の価値がインフレを起こし始めます。その萌芽は、私の時代とかからもうあったのですが、足利幕府が強い力を持ち、互いに心の底で(検閲)しながらも朝廷との蜜月関係(笑)を築いていた頃は、まだ一定の価値と基準を持っては居ました。
2012-01-09 13:37:25しかし、応仁の乱を経て、将軍家は朝廷のサイフ…ゲフンゲフン、保護をまともに出来なくなっていきます。貴重な収入源を失った朝廷は、地方の大名達に目を向けます。
2012-01-09 13:39:30こうした官位インフレがあったからこそ、なんでしたっけ、あの斯波氏の被官の草履取りしてた猿みたいなやつ。ああいうのが関白やっちゃうような世になるわけなんですね。
2012-01-09 13:47:37江戸時代になると、朝廷の保護をガッチリ徳川家がやるようになり、売官もできなくなります。ここで官位の価値は安定しますが、一方で幕府によって完全にコントロールされる伝統の一つになり、意義は薄くなって行きました。
2012-01-09 13:50:11院政期の摂関家が従二位の中で左大臣右大臣のポストを争っている時、従五位・従六位では昇殿出来るか否かの戦いを繰り広げている。けれど時代が下れば現金がすべてを解決したりもする。
2012-01-09 13:55:05私の最終的な官歴は正二位権大納言。従五位下からここまで30年ちょっとかかりました。でもこれは当時だとちょっと凄いことなんです。あ、死んだ後従一位左大臣になったよ!やったね!いんだ後!(・∀・)
2012-01-09 14:00:16義詮ちゃん、有り難う!糸電話から呟くのはめんどくさいけど、私からも。「昇殿」には院の昇殿と内の昇殿があり、院<内です。私は頭中将ですから、当然両方許されました。
2012-01-09 14:07:10源頼政殿が冠位への思いをしたためた和歌を詠まれ、三位になられたのは有名ですね。70歳を越えてのことでした。私が従三位になったのは、寿永二年7月、都落ち直前で、その後解官位されますから「新三位中将」と呼ばれた期間は実は短い泣
2012-01-09 14:14:10以仁王の乱制圧の功で屋島内府嫡男、右衛門督殿が正三位になります。兄上や私を抜いての昇進は、平家嫡流が小松家から屋島殿に移ったことを明示しています。
2012-01-09 14:18:27