2012.1.8 志賀理江子講演会「腹の中のカナリア」@豊田市美術館 感想まとめ
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志賀理江子さんの作品を、神秘性と単純化して現すことはできない。本人ももちろんそんな単純化はされていなかった。写真とは時間の軸が異なる別の異世界であり、でありながらもこの現実の世界と繋がりのある異世界と説明されていた。つまりは作家とはその異世界と現実世界とを介す事ができうる対象か。
2012-01-09 00:34:47志賀さんの講演会で、時間と写真との関係を説明したあの樹をぐるっとした写真、ものすごく的確だと思った。自分が生まれる前と死んだ後、世界というか時間がどんな風にうつりかわるのかがよくわからず怖いと思うことがあるんだけど、なんかそれをちょっとだけ目に見える形にしてくれたような気がする。
2012-01-09 02:21:321月8日。豊田市美術館。写真家・理江子志賀のトーク。一見静かやが、内側のマグマがオーラとして外側に実体化して映るその感じ。そんな対面体験は、漫画でしか見たことなかったが、現実にいた。科学が捉える世界、宗教が捉える世界etc.とは別の次元で、理江子志賀の築いた次元がありよる。
2012-01-09 09:50:20[メモ1]志賀理江子的な意味のイメージとは、たぶん「あるべき姿」みたいな意味でそれほど間違ってないと思う。ただしイメージとは「何ものにでもなれる」ので、それを「真理」と言ってしまうのは間違い。あえて「イメージ」と言うのは良くも悪くも「あるべき姿」の振れ幅が大きいから。
2012-01-09 11:00:24[メモ2]また、イメージはどこかにあるのではなくて、作ることができる(強いて言えば自分の中にある)。それは言語を用いた思索であったり、旅行であったり、写真であったりする。写真の地図を作る「blind image sketch」のような作業はイメージを作る積極的な方法。
2012-01-09 11:03:44[メモ3]彼女にとって現実には違和感しかないので、常にイメージを抱えてそれに近づこうと動いていなければ、違和感に飲み込まれて自分は消える。しかしその近づく行為がある点に達すると、現実から自由になって違和感が無くなる。それがイメージが身体化する瞬間。当然これは写真じゃなくてもいい。
2012-01-09 11:20:43[メモ4]よくわかんないのは、写真がイメージになることとイメージが身体になることの差。彼女曰く、その二つは違うらしいけど、そこがよくわかんなかった。点(写真)と線(写真行為という総体)的な違いのような気もするがはっきりしない。豊田市美術館の講演に行った人がいたら教えて欲しい。。。
2012-01-09 11:26:01昨日の志賀さんのトークの余韻が残っていて、高速で回転する独楽と砂浜に松で描かれた円形の写真が頭に浮かんでくる。滅多なことでは近づけない深淵を覗いたようで、それはやはり厳かで、どこかそら恐ろしい。
2012-01-09 11:29:37昨日講演を聴いた、写真家の志賀理江子さんの「イメージを解体してみる」と、建築家の谷尻誠さんの「いったん名前を消してみる」 同じコトをいってるんだと感じた。職業は違っても、考えることは似ているんだ。 注文したカナリア門が楽しみです
2012-01-09 15:15:08昨日講演を聴きながら志賀理江子さんへよっぽど質問しようかと思ったことの答えはとっくに写真集『CANARY』のあとがきへ記されていたのでした。何なのだろうこの文章、ふるえがとまらない。すっかりファンになってしまったかも… http://t.co/zDaWDyfF
2012-01-09 22:45:01@akama_love ああ、なるほど。元々僕は動いてる派なんだ。ただ、それは現実が動いてるから止まってた写真も連動して動く、みたいなニュアンスだった。今考えてるのは、むしろ世界の方が止まっていて、完璧に動いている写真(イメージ)に世界が動かされるんじゃないか、っていうこと。
2012-01-10 00:12:16@akama_love 志賀理江子さんは写真は止めるって言ってんのよ。ただ実は彼女が言いたいのは止めることなんじゃなくて、動かすってことなんじゃないかと思って。
2012-01-10 00:19:51@akama_love 期せずしてジョジョネタになってしまった。このあとがき読むとちょっとわかるかもしれん。http://t.co/RYEiA1vR
2012-01-10 00:34:31