姜維の行った景耀元年の建議について(国境の防衛に関する)
この件に関してだけは、私はニセクロさんの説を徹底的に撃ち破らねばならない。ニセクロさんの説は、その蓋然性を低める多くの記述を無視した上で成り立っている。だが、少なくともネット上において、この説は多くの人に支持されている。この現状は受け入れ難い
2012-01-21 11:14:01今回の更新は、「漢中の守備兵から姜維の野戦軍への兵の移転は無かった」という私の説を補足する事ができる解釈を思い付いたからだ。思い付いたと言うより、積み上げたものの中にあったというだけだが
2012-01-21 11:16:08今でこそ司馬昭可愛いとか言ってるけど、その今の俺があるのも、姜維名誉回復運動があったからなわけで、それを疎かにしてはいかんわけよ。
2012-01-21 12:06:45景耀元年の建議については、実際、パワーアップキットどころかDLCくらいの内容なので、実はツイッター向きなんじゃないかと思ったり。最近、ブログは長編投下用だから
2012-01-22 02:08:27正直、あんまり期待させといてがっかりなパターンになりそうなので、景耀元年の建議に関する追加の内容について話しておくか。ブログには、修正版として、追加要素だけじゃなく、建議全体を説明する内容を投稿しよう
2012-01-22 02:17:49もともと、姜維が漢中から兵を引っこ抜いたという主張の根拠は、興勢の役と鍾会の蜀討伐における兵数の差にある。その前提条件である興勢の役の兵数が変化すれば、主張の蓋然性も変わる
2012-01-22 02:28:28蒋琬が、諸葛亮死後に解体された野戦軍を、自らのもとに集めようとした事はそこで指摘した。そして、費禕らによる政変によって、一部を残し、それが蒋琬の手を離れた事も
2012-01-22 02:38:18この軍は、その後に、漢中の恒久的な守備兵として組み込まれただろうか?答えは否であろう。拠点の守備を目的とした軍と野戦を目的とした軍は同じではない。野戦軍を恒久的に要塞に張り付かせるのは資源の浪費である。これは恐らく、姜維によって自らの野戦軍に組み込まれただろう
2012-01-22 02:55:06では、その規模はどの程度か。これは費禕の時代に姜維の動かした兵数を、蒋琬麾下に残った諸葛亮の野戦軍の一部と考えれば推測できる。興勢の役にあって漢中に存在した野戦軍は約1万である
2012-01-22 03:05:32そこから導き出される漢中の守備兵の数は、おおよそ2万であり、漢楽の二城、関城、そして秦嶺と武都の諸囲の兵数を合わせれば、2万は優に達しうる
2012-01-22 03:10:29深夜の話は、「もともと漢中の守備兵なんて2万くらいしかいなかったんだよ」って内容。じゃあ、実際、景耀六年に蜀が討伐された時に、この2万という数と符合するかって話だよね
2012-01-22 12:57:22景耀六年、漢城と楽城だけで合計1万の兵がいた。これだけで半分を使っている。更に黄金囲などの秦嶺の諸陣地の内、幾つかは退かずに降伏したことが華陽国志から分かる
2012-01-22 13:02:20また、姜維は武都方面に七箇所の防御陣地を築き、兵を置いている。防御陣地の兵は、少なくとも戦術単位の規模であっただろう。一箇所につき5百とすれば、合計3千5百の兵がそこに張り付く
2012-01-22 13:04:18秦嶺の諸囲の内、退かなかったのを仮に五箇所としよう。そこも各5百の兵を置いていれば、2千5百であり、武都と合わせて6千だ。
2012-01-22 13:06:38こうなると、関城は残りの4千の兵で守った事になる。だが、関城は姜維も言っているように最重要拠点だ。4千という事は無い。秦嶺と武都の諸囲の兵を少なく見積もってバランスをとる事もできるが、それをしたって5,6千にしかならないし、それでも少ない。恐らく関城にはもっと兵が居た
2012-01-22 13:11:57関城にもっと多くの兵がいたとなると、漢中の守備兵は2万を超える。つまりどういう事かと言うと、姜維は景耀元年の建議によって漢中から守備兵を引き抜いたのではなく、逆に増強したのだという事だ
2012-01-22 13:14:48推測し得る沓中に居た時の姜維の兵は、あまりに少ない。とても1万も2万も増強した後ではない。むしろ減っている。だからこそ、漢中から兵を引き抜いたという発想は不自然なのだ
2012-01-22 13:19:39