【さかのぼれ!】摂関政治の危機【日本史】
- sukemori_t
- 15411
- 103
- 4
- 2
この頃の藤原摂関家の権力分裂。
本来:氏長者=摂政関白=内覧 というものだったのに。
鳥羽院の院政による摂関家パワーダウンや
忠実忠通親子の確執から
氏長者:頼長
摂政関白:忠通
内覧:頼長(その前は忠実)
というばらばら状態になってました。
この由々しき事態をとめるために忠通・頼長は
それぞれ養女を近衛天皇に入内させようと躍起になった。
近衛天皇に忠通は養女呈子(しめこ)を。
頼長は養女で待賢門院の親戚にあたる多子(まさるこ)を。
(多子ちゃんは璋子様の血筋だけあって絶世の美女!
近衛天皇の後は二条天皇から熱烈なラブコールを貰ったり
してほんとに美女だったんだ!近衛天皇も多子ちゃんとは
仲がよかったんだよ!頼長は嫌いだったけど!
とりあえず多子ちゃんは頼長自慢の養女だよ!)
しかしそんな二人の女性の入内も
権力低下の悪循環にしかなりませんでした。
だって入内の優先順位をめぐって兄弟で喧嘩して
妨害してるんだもの。意味がない。
「決まりごとは守らないと駄目!貴族が守らないルールを
その貴族に仕える武士や民が守るわけがない!
我々がしっかりすべきだろ!」と
自分や他人に厳しい頼長。
大事な儀式に遅刻した貴族の家を
燃やしてしまったりしています。
保元元年、鳥羽上皇崩御。
頼長の関白になりたいことへのわがままや
いきすぎた行動などで鳥羽院と近衛天皇は
頼長への好感度をがんがん下げていきます。
(忠通の策略という可能性もあるとか)
きわめつけは近衛天皇の崩御。
頼長らが呪詛したせいだという話が持ち上がり
真偽は多分冤罪でしょうが近衛天皇の両親である
鳥羽院と美福門院は信じたのでしょう。
これが決め手で頼長は流罪をいいわたされます。
保元の乱主要メンバー
【上皇側】 VS 【天皇側】
崇徳上皇 後白河天皇
藤原頼長 藤原忠通
藤原教長 信西
平忠正 平清盛
源為朝 平重盛
源為義 源義朝
藤原家成
美福門院
保元の乱は一日であっさり上皇側の負け。
(武士の皆さんはがんばってくれましたが
やっぱり拠点に火をつけられては
どうしようもなかった)
崇徳上皇と頼長は逃れるために
馬に乗りますが
(慌ててるためうまくのれなくて
家臣に後ろからだっこしてもらった)
頼長は逃げる途中流れ矢が首に当たります。
崇徳上皇はそのまま如意ヶ岳に逃れ
ハード登山して心が折れて泣いて
ついてきてくれた武士たちを逃がし
出家して仁和寺に保護を求めて逮捕されます。
負傷したまま頼長は家臣につれられ
川を下り奈良にいる父忠実の元へ。
傷の深さから死期を悟ったのでせめて父に一目でも
会いたいと思ったのでしょう。
しかし、父忠実は頼長に会ったりすれば自分も
戦に関与したとみなされるとして
「藤原摂関家の長なら普通矢に当たる?
そんな当たるような子に会いたいって思わない」と
冷たい言葉で頼長との面会を拒絶しました。