【さかのぼれ!】摂関政治の危機【日本史】
- sukemori_t
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大治4年、忠実公政界復帰
地方の豪族と連携し、荘園を拡大。
↓
武士を召抱え管理を任せる
木曽殿のいうとおり、摂関家は源平でいえば
源氏のほうを贔屓しておりました。
この頃は
朝廷と平家が仲良し、
摂関家と源氏が仲良し、と
覚えておけば簡単かもしれません。
頼長の部下に為義の次男義賢がいます。
義賢は長男の義朝より嫡男として期待されていたと
いわれています。
義賢は父の期待を背負って摂関家とのパイプと
源氏の棟梁候補として成長しますが
「兄の東国おさめてお前が棟梁だとPRしてこい」と
父親に命じられて東国に下った際
義朝の息子である義平(悪源太)にぬっころされました。
このとき義賢の息子でベイビーだった駒王丸君は
ひそかに逃がされ木曽義仲になって帰ってきますが
それはまた別のお話。
忠実公の政界復帰によって新たな火種が!
息子で嫡男という忠通(関白)がいながら
今更父親がでてきて・・・と忠通はあまりいい気持ちでは
なかったかもしれません。
頼長のお母さんは身分が低くいわゆる庶子という扱いでした。
(元木先生はそれが頼長の生涯のコンプレックスになった
のではないかと考察なさっています)
その頼長は六歳の頃兄忠通の養子となっています。
忠通には嫡男となる息子がいなかったので
20以上も離れている弟を養子(嫡男)とするのはなんら問題なく
この頃は穏やかな家族関係でした。
しかし頼長23歳の頃忠通に待ちに待った息子が
生まれると忠通は養子の契りを破棄。
忠実忠通の親子喧嘩、忠通頼長の溝の大きな要因と
なったのでした。
小さい頃の頼長は菖蒲若(あやわか)といって
(別の日記に綾若とも表記があったので
アヤワカと読んで間違いなさそうです)
猫をすこぶる可愛がって長生きできますようにと
お祈りするほど健気な少年でした。
頼長が自分の日記で
「小さい頃はもう勉強とか全然しないで
馬に乗ったり鷹と一緒に遊びまくってましたわーww」と
かいています。
人物叢書によればまじめに勉強を始めた年齢は
17歳という、内大臣になったのと同じタイミング!
それまでどうしていたんでしょうか。