劇評についてのあれこれ

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片山 幹生 @camin

@queequeg (続き)「おお、プロの書き手はこのジレンマのなかで、最終的には何とかして見知らぬ観客へ届くことばを誠実に書き記そうとするのだな」というごく当然な事実に。こういった「しがらみ」をスマートに処理するのは実はかなり重要だと思います。自己の客観視の上でも。

2012-02-11 15:29:38
吉永美和子 @Yoshine_A

先ほど公式RTした西田シャトナーさんを中心とする「批評」に関するあれこれ話。私からすると耳に痛い話や納得できる話もあって興味深い。ちょい引っかかったのが「招待で見た人間があれこれ言うのは基本的に間違ってる」という意見。そうか、彼的には私はずっと間違ったことをしていたのかと。

2012-02-11 15:06:34
吉永美和子 @Yoshine_A

逆にお金払って観る側には「演じる側はお金もらってるんだから、何を言われても我慢するべき」というスタンスで、ひどい意見を平気でぶつける(しかも匿名で)人もいましたからねえ。特にネット黎明期は。

2012-02-11 15:11:36
吉永美和子 @Yoshine_A

化粧してる間に考えまとまった。要は「タダ見の人は何も言うな」と「金払ったら何言ってもよい」という考えは紙一重であり、惑わされちゃいかんなあと。私は招待の公演も自腹切った公演も、同じスタンスで観るよう心がけてるから。まあ確かに、自腹の方が酷い芝居だった時の絶望感はデカいけど。

2012-02-11 15:33:00
山本健介 @honsukesan

劇評とか評論の話でタイムラインでいっぱいだ! 僕は長い感想というものが好き。それ、劇関係ないじゃんか、というような、いつの間にか自説になっているのとかを見ると面白いなあと思う。そういう自説を引っ張り出せる作品を作ったのだなあ、と思い、非常に嬉しくなる。

2012-02-11 15:14:23
ぽえん @nt1chk

@queequeg 批評は、書き手が自身の署名を負って(それが無記名だとしても)、社会に対して作品の価値付けを開くものであって、特定の個人(含、当の作品の作り手)に対してのみに限定されるものではない。その意味で、批評は先ずその内容よりも機会や場の方に依存する機能だと思います。

2012-02-11 15:06:16
ぽえん @nt1chk

@queequeg 批評は、その対象とする作品が既に作られていることを以て行われるので、作品がどうつくられたか・作り手の視座よりも、結果その作品がどのように完成しているか・作品の結構についてを重視するように思われるので、作品が「どう見えるか」については批評家も作り手も同じでは?

2012-02-11 15:10:33
ぽえん @nt1chk

@queequeg なぜ線の引き方の自由度が高いの?

2012-02-11 15:21:01
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

いまRTした @nt1chk さんの発言、おっしゃる通りだと思います。「(解釈的)批評が作家の意図を超えた視点を提出するっていう事態はそうそうありえない」というのは、「どう見えうるか」の可能な広がりについて、作家は批評家よりよっぽどよく承知している、という意味で言いました。

2012-02-11 16:14:20
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

しかし、その広がりの中から、実際にどの一つ(「どう見えたか」)を選ぶかについては、条件は同じ。/ともあれ、「どうつくられたか」についての記述と「どう見えるか」についての記述を区別することは重要。劇評を巡るすれ違いの多くは、これの混同から生じている部分はあるだろう。

2012-02-11 16:15:13
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

作家は、「どうつくられたか」が述べられてないから不満を抱く場合もあるだろうし、うっかり「どうつくられたか」に踏み込んで見当違いなことを述べてしまったり、個人的な願望を投影して「どうつくられるべきであったか」について語ってしまう批評家もいるだろう。

2012-02-11 16:16:16
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

しかし、本質的な問題は、「どう見えるか」について価値判断を伴った記述を行う場合、それが、「どうつくられるべきであったか」という含意を孕まずにいられる―あるいは、孕まないでいてよい―のか、ということではないか。

2012-02-11 16:17:01
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

まあでも、虚実の究極的な分割は不可能という意味で、「行きたかった詐欺」上等。

2012-02-11 16:23:01
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

しかし、僕は先に述べたように、「批評は作家の意図をほとんど超えない」という立場なので、「どうせ想像の範囲内でなら」という意味で作家が賞賛を欲しがるのは理解します(というか、反論しがたい)。もちろん、よりベタにセルフィッシュな承認願望も少なからずあるのでしょうけど。 @camin

2012-02-11 16:27:00
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

あと、批評家の解釈が把捉しきれないほど豊かで知的な作品を作る作家の持ち出す「劇評論」が、話にならない程度の低い「建前論、鬱憤ばらし」であっても、そこには何の矛盾もない。こういう言い方は作家と批評の不幸な分断を助長させるタチの悪いものかもしれないが…。

2012-02-11 16:30:25
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

@camin いまnt1chkさん宛のリプライでいくつか書いたのですが、もちろん、批評家の解釈を誤読としてはねのける権利は作家にはないと思っています。「そう読まれてしまった」という事実はそれとして尊重してほしい。

2012-02-11 16:55:57
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

@camin ただし、最終的に作家の関心の在り処って、そうした受容の次元とは独立にあるべきだとも思うのです。で、もちろん批評の側としても、取り立ててそこに関与する必要はない。あくまで、事実としての作品にのみ向き合えばよい、という認識です。

2012-02-11 16:57:43
ぽえん @nt1chk

そのあたりの扱い、明確化が必要 RT @queequeg: しかし、本質的な問題は、「どう見えるか」について価値判断を伴った記述を行う場合、それが、「どうつくられるべきであったか」という含意を孕まずにいられる―あるいは、孕まないでいてよい―のか、ということではないか。

2012-02-11 16:32:20
ぽえん @nt1chk

@queequeg 当の批評家が自分の立ち位置を曖昧にしながら作品を定義する場合に、露骨に喧嘩になりますよね。

2012-02-11 16:34:09
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

@nt1chk これにリプするの忘れてました。研究の場合は、やっぱ制約が多いからですね。ある作品に対して、ある解釈枠組みを適用すること自体の妥当性とかがいちいち問われる(ex.なんで三島をラカンで読むのか?)。しかも、論理でなく事実だけがその妥当性を満たすとされる場合も多い。

2012-02-11 16:34:11
ぽえん @nt1chk

@queequeg 「「どう見えうるか」の可能な広がり」については確かに、作り手は自分の作品を「どうつくるか・どう見せるか」について可能的な検討を充分に行っている、と言い得るかもしれません。

2012-02-11 16:34:49
ぽえん @nt1chk

@queequeg でもそれに対して、完成した作品の「どう見えるか」についての事実的な保証を作り手が弁別する際に、「作品に関する当事者/鑑賞者」と云う二重化から、やはりその発言が批評家のようには作り手は自身の作品に対して外在化し得ない。

2012-02-11 16:34:58
ぽえん @nt1chk

@queequeg 作家主義的な読み手にとって、作家自身の言葉が相変わらず尊重されるけれど、やはり「作家が悲しいときに描いたからこの絵は悲しそうに見える」とかのその「悲しさ」ってどうでもいい気もしてきます。「その絵をゴッホが描いたからいい絵なのか?」とか。

2012-02-11 16:37:35
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

@nt1chk うん、その辺も同意です。だから「条件は同じ」といったけど、やはり「どう見えるか」の判断能力自体については、基本的に批評家(観客)の方に優位性があると思う。その意味で、批評家の意見は、作家にとって最低限一定の参考になるはず(先に「サンプル」と書いたのはそういう意味)

2012-02-11 16:41:35
ハートブレイクハートブレイク @queequeg

@nt1chk でもそのレベルで「どう見えたか」を知ることは、一定の反省材料になり、また、今後その「見え」を操作する技量を向上するヒントにもなりうるだろうけれど、多くの作り手の本質的な関心ってやっぱそのレベルにはないんじゃないだろうかと思う。可能な見えの広がりこそが問題というか。

2012-02-11 16:45:03
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