諸葛亮の後継者は魏延だった!?

建興十二年(≒234年)秋の諸葛亮陣没前後に起きた事とは何か!日々追加。
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アキラ・フォン・ランズベルク @akirakenkian

夢に大蛇が出てきたんですが……あれって吉夢なのかなぁ?

2012-02-18 16:51:25
松浦 桀 @HAMLABI3594

@akirakenkian 蛇は生命と知恵の象徴、ゼーレの紋章なれば林檎を買い求めて大吉ですぞ。(趙直) http://t.co/yKqysdTY http://t.co/9Zpp31Oi

2012-02-18 17:04:31
松浦 桀 @HAMLABI3594

@Jonathan_apple 魏延も詐欺に引っかかったんだよね。陳壽「三國志」『蜀書』魏延伝「・・・(費)禕紿延曰 ・・・」(訳)・・・費禕が魏延を紿いて曰く・・・。【紿】(タイ)・・・あざむく(欺く)。台は喜ばせるの意味。相手を喜ばせて欺くこと。

2012-02-18 17:17:01
朝霧 紅玉 @Smiths_Cider

@HAMLABI3594 占い師からも嘘言われるしね。あの場面は散々だ。

2012-02-18 17:23:07
松浦 桀 @HAMLABI3594

陳壽「三国志」『蜀書』魏延伝「秋亮病困 密與長史楊儀 司馬費禕 護軍姜維等 作身歿之後退軍節度 令延斷後 姜維次之 若延或不從命 軍便自發 亮適卒 祕不發喪」 正史の原文のどこにも諸葛亮が楊儀に撤退についての事を命じたって書いてないよね?「與」の解釈で変わるのかな。

2012-02-18 19:41:54
松浦 桀 @HAMLABI3594

【訳】秋、諸葛亮病に困(くる)しむ。密かに長史楊儀と司馬費禕と護軍姜維らとが、諸葛亮の没後の退軍の節度を作り、魏延に後を断たしめて、姜維は魏延に次ぐとす。もし魏延或(うたが)ひて命に従わざれば、軍すぐさま自ずから発たんとす。諸葛亮適(ほどよく)して卒するに、秘して喪を発せず。

2012-02-18 19:42:26
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 諸葛亮が決定に関与していたら、魏延に話を通さないとは思えませんので、諸葛亮の容態が急激に悪化して人事不省になったので、その場にいた幕僚たちだけで段取りしたというところではないでしょうか?呼ぶ余裕がなかった魏延には事後承諾してもらうつもりがケンカになったと

2012-02-18 19:45:38
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 軍を統率する役が必要ですからね。幕僚の楊儀と費禕だけでは、撤退の段取りの実務的な話はできません

2012-02-18 19:54:11
松浦 桀 @HAMLABI3594

@sweets_street ということは、やはりこの3人(以上)が段取りをとったということになるんですかね。姜維が絡んでいるのは薄々わかってはいたのですが、まぁしゃーないか。

2012-02-18 19:51:28
dara3 @daradara3594

@HAMLABI3594 「諸葛亮病みて困しみ、密かに長史楊儀、司馬費イ、護軍姜維と身(みずから)が没して後のことを作す」と読むのではないでしょうか。実態は楊儀ら側近の密談だったけど、表向きは諸葛亮と一緒に相談した結果という形にしたとか。

2012-02-18 20:40:27
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 退軍節度はどうなるのかという問題と、表向きなら諸葛亮が命令したという形にすると思うので、”令”の字が入るのが普通だと思うんですよね。

2012-02-18 20:53:23
dara3 @daradara3594

@HAMLABI3594 「作身没之後退軍節 度」が一つの固まりで 「自身が没した後の軍の撤退と命令系統について取り決めた」と読むのではないでしょうか。属官と後の事を相談して合意しただけなので、「令」などの表現が無いのでは。

2012-02-18 21:27:54
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 いづれにせよ明確に否定できるわけでは無く、どちらでもとれるという書き方ということなんでしょうかね。私は諸葛亮が魏延を無視したとは思えないので自訳を通してみますwこのあたりは無意識に演義を下敷きに。覚えることより忘れることのほうが遙かに難しい。

2012-02-18 22:01:48
黒田タケフミ @nisekuro_at

@HAMLABI3594 この諸葛亮の最後の北伐では魏延は諸葛亮本隊からかなり離れたところに派遣されてたからかと。早馬で呼んでも数日以上かかる位の所。自サイトの「北伐再考」でこれから書く部分になるんですが、諸葛亮集の中に残された「與兄瑾言治綏陽谷書」と蜀署での状況から推論すると。

2012-02-20 20:23:57
黒田タケフミ @nisekuro_at

で。その「與兄瑾言治綏陽谷書 」。ほぼ訳。「綏陽小谷というものが有ります,山崖は絶重しており,谿水が縦横し,行軍に用いること難しいと雖も。昔邏候が往来しており,道を要して人を通していました。

2012-02-20 20:26:04
黒田タケフミ @nisekuro_at

今前軍を使て此の道を斫<はつ>り治めさせ,以って陳倉に向かわせたなら,以って賊の勢いを扳<ひ>き連れさせるに足りましょうから,兵を使て分けて東に行かせること得られないように<者>させられましょう也。」【水経注,巻十七「渭水」注(諸葛亮集)】

2012-02-20 20:26:19
黒田タケフミ @nisekuro_at

この中の「前軍」。これが魏延の指揮してた軍になるんじゃないかと。諸葛亮最後の北伐時に五丈原から遥か離れた綏陽小谷に派遣する部隊の指揮官としては、唯一(?)の使持節持ちである前軍師にして征西大將軍、ついでに領涼州刺史であったりなんかする南鄭侯の魏延さま以外におりませんて!

2012-02-20 20:35:16
黒田タケフミ @nisekuro_at

綏陽小谷は斜谷ルートの途中から分岐して陳倉へ出るルート。五丈原の戦い初期には恐らく魏延はこっちに居た。そしてこっちに居たとすると、費イが魏延に諸葛亮の死を伝えに走るのに早馬で飛んで行ってたりする訳が分かる。また、楊儀らが撤退したのを聞いてから魏延も撤退をしていった筈なのに、

2012-02-20 20:40:26
黒田タケフミ @nisekuro_at

途中で楊儀らを追い抜いてるし! 一本道の筈の斜谷ルートなのに! これは魏延の率いてた分遣隊が綏陽小谷の辺りに居たとすると楊儀より先んずることが出来るよね! ってのが一つの証拠になるかと。

2012-02-20 20:42:53
松浦 桀 @HAMLABI3594

@nisekuro_at なるほど!前軍師って、前軍の軍師ってことですね。ということは諸葛亮の中軍とは別個の命令系統を有していたということになりますね。

2012-02-20 20:45:16
松浦 桀 @HAMLABI3594

@nisekuro_at このあたりは地図が無いとちんぷんかんぷんですな。

2012-02-20 20:46:27
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @nisekuro_at 蜀軍には左右前後に督、前後左右と中軍に護軍・監軍を置いてましたから、前後左右と中軍の五軍が存在して、督を置いていない中軍を諸葛亮が直率していたんじゃないかと思いますね

2012-02-20 20:53:21
黒田タケフミ @nisekuro_at

@HAMLABI3594 いやいや。ちょっと違うと思う。蜀署・李厳伝の中の裴注にある李厳弾劾の上奏文に列挙されてる人たちの官位が非常に参考になる。魏延が前軍を率いてたんじゃね?ってのは単純に彼だけが節持ちだから。

2012-02-20 20:55:09
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