- HAMLABI3594
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@nisekuro_at @HAMLABI3594 この中で節を持っているのは魏延だけですね。前軍には督の高翔がいますので、魏延は前後左右の督より一段上の指揮権を持ってたんじゃないかと思います。前軍師というのは、中軍師劉琰と同じく丞相府内での特別な地位を表してるんじゃないかと
2012-02-20 21:00:09と思ってる。後漢書百官志にあるけど、大将軍は五部を営す。という通り、諸葛亮の本軍は五部。前後左右中。この前部の軍を担当するから前軍師になったんだと思う。あれ?あってる。>前軍師って、前軍の軍師ってことですね
2012-02-20 21:01:14@nisekuro_at @HAMLABI3594 前に書いたのですが、軍師は丞相府所属にしておきたいけれど、司馬や長史として処遇するには格が高すぎる人物のポストじゃないかと推測しています。曹操の府の軍師も本来なら丞相府の属官になる格ではない二千石級以上の人物を処遇ポストでしたし
2012-02-20 21:06:05@nisekuro_at @sweets_street つまり前軍だから前軍師というわけではないけれども、前軍師という職権で諸葛亮の中軍とは別個の指揮権を持つ軍を有していたことは否定できないわけですね。劉琰は行中軍師で伝を見るかぎりでは名誉職でしょう。
2012-02-20 21:06:53@nisekuro_at これはお菓子っ子さんが指摘するように、督前部の高翔がいるわけですから、諸葛亮の中軍の五部の前部と、魏延の前軍は別個ということでしょう。
2012-02-20 21:09:33@HAMLABI3594 @nisekuro_at 通常は諸葛亮の指揮下で軍を率いるけれど、別軍を出す際には魏延は前後左右の督に優越する指揮権を認められてたんじゃないかと思っています。副司令官格ですね
2012-02-20 21:12:30@HAMLABI3594 @nisekuro_at 前軍と呼ばれる軍は存在していないと思いますね。劉琰の中軍がおそらくは存在しないように。魏延の軍は普段は征西大将軍・涼州刺史の資格で帯びる兵のみで、別軍を率いる時のみ諸軍に優越する指揮権があったのではないかと
2012-02-20 21:19:10@sweets_street @HAMLABI3594 ただ、諸葛亮が手紙で「前軍」て書いてるし。この辺はどう解釈するか悩み所かな。あと魏延さんは督前部、領丞相司馬の時に諸葛丞相の命で西のかた羌中に入って陽谿会戦で費ヨウ・郭淮を破ってる。これは前部が丞相本隊から離れてた事例。
2012-02-20 21:26:42@sweets_street @nisekuro_at 前軍師と、行中軍師ですから、この行は意味があってついているのだと思いますけどね。
2012-02-20 21:30:16またこの事例から逆のことも考えられる。この陽谿会戦の時、諸葛亮の本隊も数日位の行軍で魏延を援護できるような距離で、費瑤・郭淮を捕捉できるような位置に位置取りしてたんじゃね?って。その推測を示したのがこの図。http://t.co/mb8uOqas
2012-02-20 21:31:37@nisekuro_at @HAMLABI3594 「前軍」は「前部」ではなくて、諸部に優越する指揮単位だった可能性を考えています。陽谿での勝利で魏延の独立作戦能力が確認できたので、諸部とどの部にも属さない呉壱・袁綝らの独立軍を統率しうる資格を与えたんじゃないかと
2012-02-20 21:32:20@HAMLABI3594 @nisekuro_at 前後左右中の諸軍に所属する監軍・護軍・参軍はみな行が付いていますね。指揮権を持たない諸軍所属の幕僚職にはたぶん行が付いていたんだろうと思います。劉琰の行中軍師も「指揮権を持たない幕僚である」という意味なんじゃないかと
2012-02-20 21:37:18@HAMLABI3594 @sweets_street そう考えてるのは俺だけかも。陳倉の戦いの時の可能性もある。ただ、郭淮さんの慌てぶりとか、瑯西の魏軍が姿形も見えないあたり、五丈原の頃のかなーみたいな。
2012-02-20 21:38:28@HAMLABI3594 @nisekuro_at 僕は話しながら考えますので、同じ結論にたどり着くまで時間がかかります。ご容赦くださいませ
2012-02-20 21:39:08@nisekuro_at @sweets_street なんだってーwもしやこの文章を指摘するのが偽黒さんだけだったんかな。
2012-02-20 21:39:24@HAMLABI3594 そう。よく言われるんだけどどうしたらいいやら。コピーペーストしてエンターで見れるって言われたことがある。
2012-02-20 21:41:35@sweets_street @nisekuro_at おそらく指揮権という言葉が見るものに誤解を招くのでしょう。蜀(と呉)の軍師とは軍統帥権のことです。つまりお菓子っ子さんがいうように魏延は諸葛亮の副司令官なんです。
2012-02-20 21:44:08@HAMLABI3594 @sweets_street 「與兄瑾言治綏陽谷書」のこと? だったら俺以前に先人がいた筈。ネット上では多分ウチが早い所なのかもだけど。
2012-02-20 21:45:30@nisekuro_at @sweets_street その人達は何年に比定しているのかで229年と234年のどちらがメジャーな考え方なのかがわかりそうですね。
2012-02-20 21:47:32諸葛亮の幕僚組織の補職について考えてみましょう。たとえば、督後部・後将軍呉班の場合。督後部は後部に所属する諸軍を統率する督。後将軍は後将軍の資格で統率できる一個軍を率いる資格。行前護軍・偏将軍許允の場合は、前軍所属の幕僚である護軍で、偏将軍の資格で統率できる一個軍を率いています
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