諸葛亮の後継者は魏延だった!?

建興十二年(≒234年)秋の諸葛亮陣没前後に起きた事とは何か!日々追加。
8
お菓子っ子 @sweets_street

つまり、使持節、前軍師、征西大将軍魏延は、諸部の督に優越する指揮権を持つ前軍師で、征西大将軍の資格で一個軍を率いる将軍ということですね

2012-02-20 21:51:56
黒田タケフミ @nisekuro_at

@sweets_street @HAMLABI3594 全部「行」が付いてるのは、もしかしたらこれ、システム構築途中の軍制だからじゃね?ってゆう。魏延伝だと前軍師の前は領丞相司馬。丞相司馬だけじゃもう手が回らんから軍師作るかー、魏の制度にある護軍とか監軍とか入れてみっかーみたいな

2012-02-20 21:54:14
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @nisekuro_at 諸軍を統率する督や軍師の権限と、将軍直属の軍を率いる権限は別だとかねてより思っていましたので、前軍師を魏延直属の常備軍という誤解があるのではないかと思ってました

2012-02-20 21:54:17
お菓子っ子 @sweets_street

@nisekuro_at @HAMLABI3594 僕は「本官偏将軍で丞相府軍前部の護軍代行許允」という感じなんじゃないかと思いました。本官は将軍や中郎将で、格下の丞相府属官を代行するという形で丞相府に所属させてるんです

2012-02-20 21:57:11
黒田タケフミ @nisekuro_at

@sweets_street @HAMLABI3594 やはりそれが一番妥当な考えか・・・際どいところ狙い過ぎだよなー俺

2012-02-20 21:58:58
松浦 桀 @HAMLABI3594

@sweets_street @nisekuro_at 私も偽黒さんのいうようにシステム構築途中の軍制と解釈します。確かに代行という意味もありますが、漢制では無い臨時の制度にも行を使います。

2012-02-20 22:01:13
黒田タケフミ @nisekuro_at

@HAMLABI3594 @sweets_street 今手元にないけど、来週までには捜し出して見せる! その本では確か五丈原の時のこととしてたような。ただ、見たのはその一例だけです。そしてその與兄瑾言治綏陽谷書が気になってたかつての俺はずっと該当する原文を探し続けたのであった。

2012-02-20 22:01:53
お菓子っ子 @sweets_street

@nisekuro_at @HAMLABI3594 丞相が比二千石の中郎将や、二千石の将軍のような大官を丞相府のヒラ属官にするには、本官ではなくて代行という形で兼ねさせないと困難だったんではないかと思いました

2012-02-20 22:02:17
黒田タケフミ @nisekuro_at

で、俺が與兄瑾言治綏陽谷書を五丈原のあたり?と比定したのは、どうしてだったかな? これも昔の俺に聞きに行って見る。タイムマシンが欲しいよ!

2012-02-20 22:03:19
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @nisekuro_at 正規の丞相府の機構の中の役職でなくて、臨時に設置したゆえに正官として扱えなくて、行官にして代行させた面もあるでしょうね

2012-02-20 22:04:38
松浦 桀 @HAMLABI3594

@sweets_street @nisekuro_at 例えば『上尊號碑』では延康元年(≒220年)の石碑で、曹仁、曹眞、曹休、夏侯尚、臧覇を「行都都督軍」とし、翌年「都督諸軍事」となることから、行を正式な制度では無いことを示すと石井仁が指摘しています。記憶では。

2012-02-20 22:13:11
黒田タケフミ @nisekuro_at

@sweets_street @HAMLABI3594 多分、それが諸葛亮の独裁体制の肝だったと思う。>丞相が比二千石の中郎将や、二千石の将軍のような大官を丞相府のヒラ属官にする

2012-02-20 22:13:55
黒田タケフミ @nisekuro_at

これだと逆らえない。変なことすると直ぐに首が飛ぶ。さすが知力100軍師はやることが違いますな

2012-02-20 22:17:11
松浦 桀 @HAMLABI3594

@nisekuro_at @sweets_street  こうはっきりと指摘されてみると、なるほどと思います。

2012-02-20 22:19:12
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @nisekuro_at 反董卓挙兵の際に曹操が行奮武将軍、鮑信じが行破虜将軍を自称したのも、本来は置かれていない官位をでっち上げる際に、いきなり本官は名乗れないので行官を名乗ったのだと思います。他の時代でも正規でない官を置く時に行官とする例は多いです

2012-02-20 22:19:45
お菓子っ子 @sweets_street

@nisekuro_at @HAMLABI3594 曹操の丞相府も、漢朝の高官や名士を軍師や参軍事として取り込んで強化されました。諸葛亮はこれを軍人でもやろうとしたのだと思います

2012-02-20 22:23:56
松浦 桀 @HAMLABI3594

@sweets_street @nisekuro_at 私の意見とは多少異なります。確かに軍師も護軍も監軍も漢代からありましたが、諸葛亮は名称は同じで職務内容を変えたのだと推測します。制度が違うから行なのです。奮武や破虜將軍は名号の問題なので、これは代行だと思います。

2012-02-20 22:27:00
松浦 桀 @HAMLABI3594

そもそも臨時の制度だから代行でも違いが無いといわれればそれまでですが。

2012-02-20 22:28:01
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @nisekuro_at 丞相府には本来の職制では、軍師も護軍も監軍も置かれませんので、そもそも存在しないポストを設置して代行という名目にしたという意味では、存在しない将軍号を置いた曹操らの例と同じであろうと考えました

2012-02-20 22:32:41
黒田タケフミ @nisekuro_at

まぁ。丞相司馬がいなくなって五軍師制だもんなー。居なくなった訳じゃなくて史書に残されなかっただけかもだけど。ただ、曹操も軍組織が大きくなるにしたがって中の試行錯誤してシステムを作っていってるんだよね。

2012-02-20 22:33:18
黒田タケフミ @nisekuro_at

例えば本当の初期は司馬が切り盛りしてた。荀イクが鎮東将軍司馬になってる。ところが司馬一人じゃきりもり出来なくなる。で、軍祭酒とそれを取りまとめる軍師が登場する。郭嘉、荀攸ね。更に組織が大きくなると最早軍師一人では手に負えなくなる。で、前軍師とか左軍師とかが出てくる。

2012-02-20 22:38:52
黒田タケフミ @nisekuro_at

また軍祭酒がいつのまにか見えなくなって参軍事が登場する。こうなると参謀府って赴きだ。筆頭は中軍師の荀攸。荀攸は最初から軍師で登場し、最後まで筆頭軍師だった。・・・初代だと知力が足りなくて軍師じゃなかったんだよ! いつも郭嘉に負けてんだよ! そんなの絶対おかしいよ!

2012-02-20 22:42:06