諸葛亮の後継者は魏延だった!?

建興十二年(≒234年)秋の諸葛亮陣没前後に起きた事とは何か!日々追加。
8
前へ 1 ・・ 3 4 次へ
松浦 桀 @HAMLABI3594

@sweets_street @nisekuro_at 私は戦乱期には平時の職制はあってないようだと思っているので、あまり気にしたことがありませんでした。つまり権限者の好きなようにすればいいと。それからやはり將軍號の自称とこれらの行官(と石井仁が名付けた)は違うように思います。

2012-02-20 22:42:10
松浦 桀 @HAMLABI3594

あんまり、石井仁が言っていたばかり言ってると石井仁の威を借りてるだけじゃねーかと思われるのですが、やはり最初に言ってる人を書かないとね。

2012-02-20 22:43:14
松浦 桀 @HAMLABI3594

@nisekuro_at 私的には郭嘉は軍師ですらありませんww

2012-02-20 22:44:24
黒田タケフミ @nisekuro_at

コーエーはもっと攸さんを優遇するべきだと思います! 知力95とか微妙なラインに置くなんて! ああ、でもその微妙なラインが攸さんらしくていいのか!

2012-02-20 22:45:15
お菓子っ子 @sweets_street

@nisekuro_at 事務系統の長史には劉岱や薛悌や王必などの古参の腹心。軍事幕僚系統の領軍・護軍にはやはり史換や韓浩ら古参の腹心。顧問格の祭酒や参軍事には、王朗・華歆・董昭ら高官経験者や荀攸・郭嘉などの気鋭の文人を配したのだろうと思ってます

2012-02-20 22:47:31
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @nisekuro_at 戦乱の時代だからこそ、実態のない職制をでっち上げる時には形式を踏まないと、指揮系統を確立させるのが難しいだろうと思います。ゼロから創り上げるのは難しいから、先例や常識にならってそれっぽくでっちあげるわけですね

2012-02-20 22:50:30
松浦 桀 @HAMLABI3594

@sweets_street @nisekuro_at だから、名称だけ引っ張ってくるんですね!

2012-02-20 22:53:28
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @nisekuro_at そうですね。明治になって新たに国軍を作る際に、階級名称を律令の近衛・兵衛の官名から取ったのと同じ事です

2012-02-20 22:55:38
松浦 桀 @HAMLABI3594

こんなのを見つけた 與步騭書 僕前軍在五丈原。原在武功西十里。馬(家)〔冢〕在武功東十餘里,有高勢,攻之不便,是以留耳。○《水經注》卷十八《渭水》注。

2012-02-20 23:06:00
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @nisekuro_at 説明しないと分からない子でごめんなさい・・・

2012-02-20 23:06:17
松浦 桀 @HAMLABI3594

@sweets_street @nisekuro_at いや、ニュータイプじゃあるまいし・・・。でも、魏延が諸葛亮の副司令だっけ?と書かれた時には「キター!」と思ったんですがね。

2012-02-20 23:07:00
drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

まあ、この分野では石井先生が権威ですから、まず引きだすのはむしろ正しいのでは? RT @HAMLABI3594: あんまり、石井仁が言っていたばかり言ってると石井仁の威を借りてるだけじゃねーかと思われるのですが、やはり最初に言ってる人を書かないとね。

2012-02-20 23:11:12
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @nisekuro_at 官職の権限を考えると、将軍職は直属軍の指揮権を表すもので、将軍号の軽重は待遇の軽重のみ。軍師や督は丞相府内での権限を表すものなので、丞相府内で最も重い軍師・使持節で、最も重い将軍号を帯びているなら、副司令官であろうと推測しました

2012-02-20 23:12:17
松浦 桀 @HAMLABI3594

@sweets_street @nisekuro_at それが何を意味するのかが重要なんですよ。

2012-02-20 23:13:31
drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

@HAMLABI3594 そもそも蜀漢ってあんまり二千石自体=太守が絶対的に少ないですよね。そういう事情が自ずから蜀漢の官制を本来の中央政治と異なる独特のものに変貌させざるをえなかったと思うんですよね。諸葛亮の思惑云々を超えて。もちろん彼の思惑もあったでしょうけど

2012-02-20 23:14:59
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @drkinokoru 太守より刺史が少ないですね。なにせ一州しか持ってませんし。それゆえに統制しやすかったですね

2012-02-20 23:20:21
drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

@sweets_street @HAMLABI3594 蜀漢の官制について語るほどのアレがあるわけでもないんで@はつけませんでした(笑)。一州帝国ってなんかわびしいですね。安田先生は石井先生のおっしょうさんですね。三国志詳しい人でもあんまり知らないのかな?やっぱり

2012-02-20 23:27:51
お菓子っ子 @sweets_street

@drkinokoru @HAMLABI3594 僕はさほど三国志には詳しくないので、知らないのも無理は無いですね。元来得意な時代ではありませんので。行政機構が大きいと維持コストもかさむので、劉備や諸葛亮のような独裁者が一人で掌握できる体制を作るにはちょうど良いと思いますね

2012-02-20 23:31:46
松浦 桀 @HAMLABI3594

@sweets_street @drkinokoru ところで、今日の話は魏延は諸葛亮の後継者だったという話題の続きでいいんですかね?私の魏延伝訳途中だったわけなんですが。

2012-02-20 23:55:28
drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

@HAMLABI3594 途中から見たんで知りませんでした(^ ^;)。後継者って死後のことでしょうかね?荊州の人間・しかも名士じゃないと主導できないから後継者はないんじゃないですかね?前線の指揮を任せられることくらいはあるでしょうけど

2012-02-20 23:57:45
松浦 桀 @HAMLABI3594

@drkinokoru 軍隊指揮権的な意味でです。政治的には無いでしょう。そもそも魏延は成都に足を踏み入れたことが無いと思う。

2012-02-20 23:59:10
お菓子っ子 @sweets_street

@HAMLABI3594 @drkinokoru 諸葛亮は後継体制を定めないまま不慮の死を遂げたと思ってますので、魏延が正式な後継者とは言えないですが、指揮権継承順位では最上位者であったと思っています

2012-02-20 23:59:14
松浦 桀 @HAMLABI3594

私が魏延が諸葛亮の副司令だった発言にこだわるのは、まさにそれが理由です。諸葛亮ならば、不測の事態を考慮しないわけが無いので、自分が死んだら"自動的に"軍隊の指揮権が魏延に移行することを示していたはずです。それが前軍師が持つ意味です。

2012-02-21 00:02:41
ネットインコ @Golden_hamster

@sweets_street @HAMLABI3594 @drkinokoru 官位、状況証拠、敵国の記録などから見てそうだったんでしょうね。少なくとも魏延が「自分が継いで皆ついてくる」と思う程度には可能性が高い候補だった

2012-02-21 00:03:46
drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

@HAMLABI3594 @sweets_street にゃるほど。軍隊指揮という点で魏延は申し分ないと思います。ただ諸葛亮一人の独裁の次の体制は劉備・諸葛亮ほどのカリスマがない故集団指導体制に入る。その一員に魏延が加われないことはないと己も思います。ただ、(続く)

2012-02-21 00:05:53
前へ 1 ・・ 3 4 次へ