厳しさの中で問われる教育の目標
エルピーダの破綻、液晶テレビに続いて日本の製造業の危機、どこまで続くのか。これらの産業構造の大転換は、就業構造に繋がり、さらには確実に学校教育の在りように関わってくる。これからはITだなどの言説には与しないが、教育問題を産業構造と繋いで検討しなければ無力なのは間違いないと思う。
2012-02-28 23:39:33教育の目標は、とりあえず子どもたちの社会的自立だ。しかし自立しようにも学校・大学からの出口が混迷を極めている。その中でも生き抜く力をどう育てるか。しかしそれは教育の力だけで全うしない。教育と社会とが緊張関係にありながら、相互に正の相互関係を作っていく視点が必要なのかもしれない。
2012-02-28 23:44:33学校や教師、そして種々の教育論はともすれば学校世界内部の議論に閉じる傾向がある。これでは、パワーのある政治経済の現実に翻弄されるだけだ。学校世界の外にあるものに目を向け、政治経済の要求を見極めながらそれを乗り越える力をどう教育が持ちうるか。難しい課題だが避けられないと思う。
2012-02-28 23:48:16就活で挨拶の仕方や会話力を問い詰められる学生たちを見るとやりきれない思いがする。下手をすると、調子がよくしゃべりの上手い学生ばかりが目立つだけになる。教育の力ってそんなものだろうか?知識基盤社会はそんな言葉だけの世界ではないだろう。知は力であるの精神をあらためて噛みしめるべきだ。
2012-02-28 23:54:26こんなときだからこそ、知が、教育が社会を作り動かすことへの想像力と構想力を持ちたい。そういう視点から、これまでの教育論を問い直したい。学校世界内部だけであれこれの方法の是非を論ずるのをそろそろもう止めた方がいいように思う。教育の世界ほど言葉だけがきれい事で舞う世界はないのでは。
2012-02-29 00:00:39例えば「自立」という言葉がある。その実質をどれだけ教育関係者は厳しく吟味してきたか。何かかっこよく自分を精一杯発揮したようなイメージが溢れていないだろうか。福澤流に言えば、社会で一人前に生きていけることだ。そのとてつもなく厳しい姿を重く理解し適切に子どもたちに伝えてきただろうか?
2012-02-29 00:07:33ふわふわとして実体のない「自立」観念、しっかりした基盤のない「主体性」の観念を教育論の中でもう一度じっくりと見直したい。いままでは知識技能、これからは思考力想像力だという中身の不透明な言辞もよーく考えてみたい。
2012-02-29 00:23:54一つ一つの知識の習得と考える力がどう繋がるのか、知識の積み重ね抜きに思考力はそもそも可能なのか?思考力はなぜどのように社会で生きる上で大事なのか。それはどの程度どのように公教育の中で満たされなければならないのか?教育の言葉と観念ほどジャルゴンに終わるのが怖い場はない。
2012-02-29 00:27:56