島村家と「蟹」

宇多源氏の佐々木家を源流とする近江の島村家が、やがて土佐の島村家、江戸の島村家へと分かれ、幕末維新を迎えるまで。
1
島村 輝 @shimamura_teru

高取山城(瀬戸内市邑久町東谷):備前守護代浦上氏の重臣の高取氏が居城したとの伝承があるが、築城期が定かでなく、その後、千町平野南部を拠点に島村氏が居城したと推定され、応仁年間(1467~69)には備前守護代浦上氏に仕える島村氏の名がみえる。

2012-03-06 17:25:21
島村 輝 @shimamura_teru

そうなると「日本氏族大鑑」の系図、本来な寿之助雅事(寿栄)の下に「甲冑次寿郎寿椿」という名が入るべきなのだろう。僅か二十歳にして戊辰戦争で戦死とは気の毒なことだ。それにしても、墓碑を撰した「岩崎」ってひょっとしたら。。。?http://t.co/Ju41EQBv

2012-03-06 17:18:21
島村 輝 @shimamura_teru

と思ったら、寿栄は島村寿之助雅事だそうな。【島村寿之助 1821~1885】 文政4年1月29日高知城下新町田渕に土佐藩郷士島村助四郎の三男として寿之助は生まれています。名を寿栄。雅事。http://t.co/lEA6VxdU

2012-03-06 17:14:16
島村 輝 @shimamura_teru

「日本氏族大鑑」の土佐島村家系図には、寿太郎雅菫は出ているが、甲冑次寿郎寿椿は出ていないな。寿椿の墓碑銘には「寿栄之嫡」とあるが、その寿榮も見当たらない。この辺はしっかり調査研究しないと謎。http://t.co/Ju41EQBv

2012-03-06 17:06:19
島村 輝 @shimamura_teru

島村寿太郎〔雅菫〕(1832-1873) 迅衝隊士 土佐勤王党。妹の富子は武市半平太の奥さん。【土佐 島村家墓所】http://t.co/2BJtrHBS

2012-03-06 16:51:01
島村 輝 @shimamura_teru

たしかうちの先祖は幕末のときに彰義隊に参加しようとしたが、遅参して命が助かったそうな。同じ先祖から分れたかもしれない島村寿太郎さんのほうは、土佐勤王党で幕府勢を攻めていたのか。不思議な縁かもしれない。それにしても維新後は両家とも冷や飯食いになったのだな。

2012-03-06 16:40:19
島村 輝 @shimamura_teru

4つ目のツイートにでる「寿太郎」すなわち幕末維新期・土佐の島村寿太郎について。http://t.co/a7Isy2kK

2012-03-06 16:36:11
島村 輝 @shimamura_teru

で、これが「島村蟹」なわけだが。。。能書きによれば、この絵を貼っておくと厄除けになるそうだ。。。http://t.co/aObuX9A7 http://t.co/SBabE3rI

2012-03-06 16:29:45
拡大
島村 輝 @shimamura_teru

【大物崩れ】浦上勢のなかでも島村貴則の奮戦は語り草となり、野里川には恨みのこもった島村蟹が発生したとの伝説が残った。1928年(昭和3)に昭和大典紀念として建てられた「大物くつれ戦跡」碑が阪神大物駅北側西にある。http://t.co/jf3pgwGo

2012-03-06 16:25:48
島村 輝 @shimamura_teru

伝説によると、この島村貴則は亡霊となって蟹に化したという。現実にこの時から、この辺りに甲羅が人間の顔に似た蟹が現れるようになった。現在摂津の野里川で島村蟹というのがそれである。http://t.co/ZNI2vosZ

2012-03-06 16:17:09
島村 輝 @shimamura_teru

さてそうなると、我が家は源平時代の佐佐木家から出て近江に定着、一部が室町時代の大物崩れで兵庫、岡山へ。さらに四国土佐に渡って、坂本竜馬や武市半平太の親戚になった。一方近江に残った島村は、家康の伊賀越えの際に味方したということで江戸へ来て、御家人となる。ということでいいのだろうか。

2012-03-06 16:12:42
島村 輝 @shimamura_teru

島村蟹居城:瀬戸内市邑久町東谷と岡山市東区長沼の境界に「高取山城跡」がある。山は163mで頂上の広い平坦地が本丸である。島村豊後守の父は島村弾正左衛門貴則といい、1531年の大物崩れという細川家の内訌に主君の浦上村宗とともにはるばる参戦し討死した武将である。居城は高取山城である

2012-03-06 16:07:20
島村 輝 @shimamura_teru

島村貴則 しまむら たかのり ?-1531 戦国時代の武将。細川高国の臣。享禄(きょうろく)4年摂津尼崎(あまがさき)(兵庫県)で細川晴元方の三好元長らに敗れ,敵兵ふたりをかかえ海中に身を投じた。のち近辺でとれる人面状模様の蟹を、島村蟹とよぶようになったという。通称は弾正。

2012-03-06 16:04:11
島村 輝 @shimamura_teru

堀城には最初宗覚系の浦上氏があり、その後家臣の島村氏が居住していた可能性がある。少なくとも島村氏の所領の一つが存在し、後世子孫の一部がその土地を頼って土着したという線は考えてもよい。http://t.co/hYKi1NpO

2012-03-06 15:59:11
島村 輝 @shimamura_teru

翌3年(1867)に退助、江戸府内にて水戸浪士 中村勇吉を匿ふ嫌疑を受け、寿太郎は退助の為に奔走す。のち戊辰戦役の時、寿太郎は旧勤王党同志らを率いて土佐 迅衝隊に従軍す。島村家は、武市瑞山並びに坂本龍馬家の姻族なり。http://t.co/Ju41EQBv

2012-03-06 15:56:48
島村 輝 @shimamura_teru

当時、藩論は大政奉還論を推して、武力倒幕を推す退助は上士の内にありて孤立すなり。ゆへに退助の胸中、中岡慎太郎をして之を書にしたため、7月10日寿太郎、樋口真吉、大石弥太郎ら勤王党に援助を求む。退助の意は勤王党の支持を受く。

2012-03-06 15:56:20
島村 輝 @shimamura_teru

下りて、慶応2年(1866)江戸でフランス式騎兵学を学びし乾正形(板垣退助)は、山内容堂に武力倒幕を進言致せるも、土佐は一豊公己來の徳川大樹恩顧の藩なり。依て藩の上士 多く公武合体之論を推す。退助、之に阻まれて遂に疎んぜられ土佐へ帰國の由を仰付けらる。

2012-03-06 15:55:40
島村 輝 @shimamura_teru

高智は、長基の兵と戦ふも遂に敵に囲まれ、仇二人を脇に挟みて摂津國尼崎の海に身を投じ水没す。のちに高智の怨念は蟹に化生し、土俗に「島村蟹」と云ふ蟹と為す。高智の後裔、初め備前國三石城に居し、のち高島城に遷す。浮田直家に仕ふ。のち土佐に下り秦元親に仕へ浦戸種崎に居す。

2012-03-06 15:55:04
島村 輝 @shimamura_teru

【島村氏系図】【世系】土佐島村氏は、宇多天皇の後裔佐々木氏の支流に出づ。【歴史】近江國細川氏の武将に島村弾正左衛門高智なるものあり。細川高國に仕へ武勇を以て名を著す。享禄4年(1531)6月阿波の三好海雲長基、高國に謀叛して之を殺す。

2012-03-06 15:54:38