ハイデッカー

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@heidegger_bot

価値を認めうるリルケの詩は、忍耐強い集中によって、ドゥノイの悲歌とオルフォイスに寄せるソネットとの薄い二巻にまとまっている。これらの詩に至る長い道程は、それ自体、詩的な問いかけの道程である。その途上でリルケは時代の乏しさを、より一層明確に経験しているのである。「乏しき時代の詩人」

2012-03-10 08:53:17
@heidegger_bot

もしも雑誌の計画が確定していないとすれば、『哲学史論叢』の最初の数巻が模範的におこなったような研究報告をときおり出すよう提案したいのですが。ただのおしゃべり評論ではなく、真の批判を。「エーリッヒ・ロートハッカーへの書簡」

2012-03-10 05:53:12
@heidegger_bot

夕映の光が森の何處かに射し入り樹樹の幹を黄金色に縁取る時・・・・Wenn das Abendlicht,irgendwo im Wald einfallend,die Stämme umgoldet....「思惟の経験より」

2012-03-10 02:53:11
@heidegger_bot

世界の内部にある存在者を存在的に描写しても、またこの存在者の存在を存在論的に解釈しても、われわれはただちに「世界」という現象に行き合いはしないのである。「客観的存在」に近づくこのふたつの近づきかたのどちらにおいても、「世界」はすでに(…)「前提」されている。「存在と時間」

2012-03-09 23:53:29
@heidegger_bot

問うということは、求めることである。そしてすべて、求めるということは、求められているものの側からあらかじめうけとった指向性をそなえている。問うということは、存在するものを、それが現にあるという事実とそれがしかじかにあるという状態について認識しようと求めることである。「存在と時間」

2012-03-09 20:53:20
@heidegger_bot

六〇年代には、哲学はふたたび自己自身を省察するようになりました。それは、カントへの、それも、三批判書、とりわけ数学的自然科学の理論を与える『純粋理性批判』の著者としてのカントへの歴史的還帰という仕方で起こりました。哲学は認識論として理解されるようになりました。「カッセル講演」

2012-03-09 17:53:15
@heidegger_bot

環境をもつという存在構成は、とりわけK・E・フォン・ベーァ以来、生物学で再び用いられるようになったが(…)生物学も実証科学であるかぎり、決してこの構造を自身で発見し規定することができないのである――生物学は、むしろ、それを前提し、そしてたえずそれを利用せざるをえない「存在と時間」

2012-03-09 14:53:16
@heidegger_bot

ギリシャでは、心理学は生についての、つまり人間の存在そのものについての学説でした(心の経過を説明しようとするのではなく根本的構造を記述しようとするブレンターノ心理学は、ディルタイだけではなくフッサールをも規定しています)。「カッセル講演」

2012-03-09 11:53:26
@heidegger_bot

おしゃべりの支配が広がれば広がるほど、それだけますます世界はおおい隠されてしまいます。このようにして、日常的現存在には、世界をおおい隠し、したがってまた自分自身をもおおい隠すという傾向があるのです。「カッセル講演」

2012-03-09 08:53:22
@heidegger_bot

公開性の居心地のよさへの頽落的な逃亡は、居心地のわるい不気味さからの逃亡である。そしてその不気味さは、実は、その存在においておのれ自身に引き渡されている被投的な世界=内=存在としての現存在の内に伏在しているのである。「存在と時間」

2012-03-09 05:53:15
@heidegger_bot

神の語ることばは話しかけであり、人間により静かな本質を指示し、人間をそのような勧告によって、彼が本来の没落から原初の時へと再生する道に呼応すべく呼び入れるところの励ましである。「詩のなかの言語」

2012-03-09 02:53:02
@heidegger_bot

愛らしいとは、古い動詞zartonに応じて、親しめる、喜ばせる、いたわりの、と同じことをいう。いたわるは、手を差し出し、自由を-与えるであるが、意志と権力なしに、欲望と支配なしにそうすることである。「言葉」

2012-03-08 23:53:49
@heidegger_bot

力への意志が価値定立の原理であることが、一旦認識されたならば、価値への問いは次ぎに、この原理にもとづく必然的な価値がどれであり、そしてこの原理に相応する至高の価値がどれであるかを考慮しなくてはならない。「ニーチェの言葉・『神は死せり』」

2012-03-08 20:53:21
@heidegger_bot

(※リルケの詩で描かれる)人間は自己を遂行するものとして、自己を自己の行蔵の一切の先頭に据えるのである。かくして人間は植物や動物よりも冒険的である。従って人間はまた植物や動物とは異なったしかたで危険の中に立つのである。「乏しき時代の詩人」

2012-03-08 17:53:22
@heidegger_bot

シュペングラーの歴史考察には諸現象の特定の解釈がふくまれていますが、この解釈ではもうそれらの現象を真に規定することはできません。「カッセル講演」

2012-03-08 14:53:22
@heidegger_bot

精神は焔である。燃え上がりつつ焔は照らす。証明は観照の眼において生起する。かかる観照にとってこそ、一切の本質存在するものを来たって在らしめるところの遍照の、到来は発現するのである。「詩のなかの言語」

2012-03-08 11:53:26
@heidegger_bot

φωςは、「光」、「明るみ」、すなわち「あるものがそこであらわになり、ありのままに見とどけられるようになるところ」のことである。してみれば「現象」という言葉の意義として銘記しておくべきことは、「ありのままにおのれを示すもの」、「あらわなもの」ということである。「存在と時間」

2012-03-08 08:53:25
@heidegger_bot

「存在」は、存在者についてのいかなる経験においても、表立たずにではあるが、あわせて了解されている。かような存在了解は、われわれ自身がそれであるところの存在者、すなわち現存在にそなわっている。「存在と時間」

2012-03-08 05:53:09
@heidegger_bot

世界は、世界性という存在論的=実存論的概念を表わす。世界性そのものは、さまざまな特殊的な「世界」のそれぞれの構造全体へ様態化されうるが、しかし世界性一般というアプリオリな原理をうちに含んでいる。「存在と時間」

2012-03-08 02:53:06
@heidegger_bot

λόγοςが「見えるようにすること」であるがゆえに、それゆえにλόγοςは真もしくは偽でありうるのである。このさい、真理は「合致」であるという「構成」された真理概念のとりこにならずにいることが、なによりたいせつである。「存在と時間」

2012-03-07 23:53:29
@heidegger_bot

孤独なものは、あらゆる単なるよるべなさが放置されているところの放心へと個別化するものでない。孤独なものは魂を唯一なるものへと運び、魂を一なるものへと集め、そして魂の本質をかくしてさすらいの旅へもたらすのである。「詩のなかの言語」

2012-03-07 20:53:22
@heidegger_bot

ある根本見解は人間を自我として規定します。この見解はデカルトにさかのぼります。デカルトは、『省察』のなかで確実性の確固とした基礎を探し、思考するもの(res cogitans)としての自我(ego)にそれを見出しました。「カッセル講演」

2012-03-07 17:53:21
@heidegger_bot

エーテルとは、光の父に対する名称である。「ヒューマニズムを超えて」

2012-03-07 14:53:15
@heidegger_bot

デカルトは、世界のなかにある存在者へ近づく適切な通路をあらためて問題にする必要がなかった。伝統的存在論の支配力が衰えることなく優勢であったので、本当の意味で存在するものをとらえる真正な把握様式については、はじめから決定がくだされていたからである。「存在と時間」

2012-03-07 11:53:55
@heidegger_bot

愛は学ばれていない。しかし人間たちは存在している、言語の存在する限りは、いまだに歌が彼らの乏しい国土の上にとどまっている。歌びとの言葉は依然として聖の痕跡をとどめている。オルフォイスに寄せるソネットの中の歌はそのことを歌っている(第一部一九)。※リルケの詩「乏しき時代の詩人」

2012-03-07 08:53:20
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